柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

世界史について

ヘーゲル『法の哲学』(藤野渉・赤澤正敏訳、中央公論社

§三二七
 なぜなら、勇気はいっさいの特殊的な目的、占有、享受、生活から自由であるという最高の捨象のはたらきであるが、この否定のはたらきが外面的に現実的な仕方のものであり、その完遂としての放棄(エントオイセルング)がそれ自体においては精神的性質のものではなく、その内的心術があれやこれやの理由であり、その実際の成果もやはり、対自的ではなく、ただ排他的たりうるにすぎないからである。


「放棄」でハイデガーの「放下」を思い出したが
「放下」はGelassenheitらしい。


ヘーゲル『法の哲学』

§三三〇
 そこで国家関係もたしかに即自的には合法的でなければならないが、しかし世俗的世界においては、この即自的に存在するものがやはり権力をそなえなければならない。
§三四〇
 この弁証法から、普遍的精神すなわち世界の精神が、無制限なものとして、まったくそれのあるがままの姿で出現し、おのれの法を――その法こそ至高の法である――世界審判としての世界史において、各民族精神に対して執行するのである。
§三四一
 世界史が審判であるのは、普遍的精神の即自かつ対自的に存在する普遍性のなかでは、特殊的なものが、すなわち多彩な姿で現実に存在している家神、市民社会、諸民族精神が、ただ観念的なものとして存在しているにすぎないからであり、このことを明らかに示すことが、世界史固有の領域における精神の運動であるからである。


柄谷行人は『トランスクリティーク岩波現代文庫版のあとがきで
カントとマルクスの間、すなわちヘーゲル、それも『法の哲学』の
検討が必要だと言っている。
『世界史の構造』はその検討から開始されたと言えるのではないか。


ヘーゲル『法の哲学』

§三四二
 世界史はさらに、普遍的精神の威力によるたんなる審判ではない、すなわちある盲目的運命の抽象的で没理性的な必然性ではない。普遍的精神は即自かつ対自的には理性であり、理性の対自存在は精神においては知であるから、世界史はむしろ、もっぱら精神の自由の概念からする理性の諸契機の必然的発展、したがって精神の自己意識と精神の自由との必然的発展であり、――普遍的精神の展開であり現実化である。
§三四五
 しかし世界史はこれらの見地の埒外にある。世界史においては、世界精神の理念の必然的契機であって、現在、世界精神の段階であるところの契機が、絶対的権利を得るのであり、この契機において生きている民族とその行為が、おのれの目的を完遂して幸運と名声を得るのである。
§三四七
 この民族は世界史のなかで、この時代にとっての支配的民族である、――そしてこの民族は世界史のなかでただ一度だけ時代を画することができるだけである〔§三四六〕。世界精神の現在の発展段階の担い手であるという、この民族のこの絶対的権利を向こうにまわしては、他の諸民族の精神は無権利であり、すでに自分の時代の過ぎ去っている民族精神と同様、もはや世界史においては物の数に入らない。
  世界史的民族の歴史は独特であって、その民族の歴史には、一つには、この民族の原理がその包み隠されている幼児の状態から脱して完全に開花するに至るまでの発展が含まれている。
  だが、世界史的民族の歴史には、もう一つ、衰微と破滅の時期も含まれている、――というのは、あるより高い原理はこの民族自身の原理を否定するものにほかならないから、このより高い原理の出現は、この民族の衰微、破滅として現われるからである。この時期は、このより高い原理への精神の移行の前兆、したがってある別の民族への世界史の移行の前兆である。
§三四八
 どんな行為の尖端にも諸個人が立っており、したがって世界史的行為の尖端にも、実体的なものを現実化する主体性としての諸個人が立っている。
§三五二
 それゆえ世界精神の自己意識がおのれの解放の歩みにおいてとるところの形成態――すなわち世界史的治世――の原理は、四つである。
§三五四
 右の四つの原理からして、世界史的治世には四つの治世がある。1、東洋的治世、2、ギリシア的治世、3、ローマ的治世、4、ゲルマン的治世。
§三五五
 この世界観においては、世俗的統治は神政政治であり、支配者はまた高位の神官もしくは神であり、憲法と立法は同時に宗教であり、また宗教的、道徳的命令が、いやそれどころか慣習が、同じく国法であり法の掟である。
§三五六
 ――だからして一つには、全体はもろもろの特殊的民族精神の形成する仲間集団から成っており、また一つには、最終意志決定が対自的に存在する自己意識の主観性によってはまだなされず、自己意識より高くてその外にあるような威力によってなされており、また欲求につきものの特殊性がまだ自由のうちへ取り入れられず、もっぱら奴隷身分へ押しつけられている。
§三五八
 おのれのうちへ押しのけられた精神は、おのれ自身とおのれの世界とのこのような喪失と、この喪失の無限の苦痛のために〔このような民族とみなされたものにすでにイスラエル民族がある〕、おのれの絶対否定という極点において、このおのれの内面の無限な肯定、神的本性と人間的本性との一体性の原理、すなわち、自己意識と主観性との内部に現われた客観的真理と自由との宥和であるかぎりでの宥和を把握する。
§三五九
 したがってこの原理の内面性はおのれの内容を展開して、それを現実世界と自覚的な理性的状態とへ高めるが、これは自由人の心情、誠実、協同に基づく世俗の国であり、そしてこの世俗の国であり、そしてこの世俗の国は、それのこうした主観性においては粗野な恣意がやはりそれ自身として存在しているところの未開な習俗の国であり、――彼岸的世界、すなわち知性的な国と対立している。
 この知性的な国の内容は、世俗の国の精神のあの真理ではあるが、しかしまだ思惟されたものではないから、表象の未開性にくるまれており、現実的心情に対する精神的威力として、この心情に対して不自由な恐ろしい権力としてふるまう。
§三六〇
 これら二つの国は、ここにおいて絶対的対立に達した区別のうちに立ちながらも、同時に一つの統一体と理念に根ざしているのであって、両者の厳しい闘争において、――霊的なものはおのれの天国における在り方を、地上のこの世、日常の世俗へと、現実においても表象においても貶し、他方、俗的なものもその抽象的対自存在を陶冶して、理想、理性的な存在と知との原理、法と法律との理性的状態へと高めるから、――この対立は即自的には骨抜きされたものとなって消え失せている。


1、およげ!たいやきくん
2、ファインディング・ニモ
3、崖の上のポニョ


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)

第一八章 商人資本の回転 価格
これはW1とW2との現実の交換であって、こうして同じ貨幣が二度その持ち手を取り替えるのである。この貨幣の運動は、種類の違う二つの商品W1とW2との交換を媒介する。
第一九章 貨幣取引資本
 この場合に貨幣が流通手段として機能するか支払手段として機能するかは、商品交換の形態によることである。
 貨幣の考察にさいして貨幣の運動や形態規定が単純な商品流通から発展してくることを考察したところで(第一部第三章)すでに見たように、購買手段や支払手段として流通する貨幣の量の運動は、商品形態によって、すなわち商品変態の規模と速度とによって規定されており、これはまた、今ではわれわれが知っているように、それ自身ただ総再生産過程の一契機でしかないのである。貨幣材料――金銀――のその生産源からの調達について言えば、それは、結局は、直接的商品交換、すなわち商品としての金銀と他の商品との交換に帰着し、したがって、それ自身、鉄やその他の金属の調達と同様に、商品交換の一契機である。しかし、世界市場での貴金属の運動について言えば(ここでは、貴金属の運動が貸借による資本移転、商品資本の形ででも行なわれる移転を表わすかぎりでは、この運動を問題にしない)、それが国際的商品交換によって規定されていることは、国内の購買・支払手段としての貨幣の運動が国内の商品交換によって規定されているのとまったく同様である。
たとえば、銀行や手形交換所で交換される手形や小切手は、それぞれまったく独立な事業を表わしており、与えられた操作の結果であって、問題はただこれらの結果をいっそううまく技術的に決済することだけである。
だから、商品取引資本はそれ自身の流通形態G―W―Gを示すのであり、この形態では商品が二度場所を取り替えることによって貨幣が還流するのであって、それはW―G―Wで貨幣が二度持ち手を取り替えることによって商品交換を媒介するのとは反対になっているのであるが、貨幣取引資本についてはこのような特殊な形態を示すことはできないのである。
第二〇章 商人資本に関する歴史的事実
  なおまた、商品はじっさい生産者と消費者とのあいだの媒介者なのではなく(生産者から区別された消費者、生産しない消費者は、さしあたりは問題にしない)、この生産者どうしのあいだでの生産物交換の媒介者なのであり、ただ、何千回となく彼らなしで行なわれる交換の仲介者でしかないのである。
 商業資本は流通部面に閉じ込められており、その機能はただ商品交換を媒介することだけだから、その存在のためには――直接的物々交換から生ずる見発展な諸形態は別として――単純な商品・貨幣流通のために必要な条件のほかにはどんな条件も必要ではない。
商品として流通にはいってゆく生産物がどんな生産様式の基礎の上で生産されたにしても――原生林共同体の基礎の上でであろうと、または奴隷制生産の、または小農民的および小市民的生産の、または資本主義的生産の基礎の上でであろうと――それによってこれらの生産物の商品としての性格は少しも変えられないのであって、商品としてこれらの生産物は交換過程とそれに伴う形態変化を通らなければならないのである。