柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ゼロ年代の50冊 2000−2009

10 トランスクリティーク 柄谷行人 批評空間 01年
朝日新聞 2010年4月4日
http://book.asahi.com/zeronen/TKY201004050129.html


マルクスは生産様式に注目する。

マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)

第二〇章 商人資本に関する歴史的事実
 生産物が商業にはいり商人の手を通る範囲は、生産様式によって定まるのであり、それは資本主義的生産が十分に発展したときにその最大限に達するのであって、そうなれば生産物はただ商品として生産されるだけで直接的生活維持手段としては生産されないのである。他方、どの生産様式の基礎の上でも、商業は、交換にはいって生産者(これはここでは生産物の所有者と考えてよい)の享楽や蓄蔵貨幣をふやすことに向けられる余剰生産物の生産を促進する。つまり、生産にますます交換価値を目あてとする性格を与えるのである。
 諸商品の変態、商品の運動は、(1) 素材的にはいろいろな商品どうしの交換から成っており、(2) 形態的には、商品の貨幣への転化、売りと、貨幣の商品への転化、買いとから成っている。そして、このような機能に、つまり売買による諸商品の交換に、商人資本の機能は帰着するのである。つまり、商人資本はただ商品交換を媒介するだけである。といっても、この交換をはじめからただ直接生産者どうしのあいだの商品交換だけと考えてはならない。


ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』(梶田裕訳、法政大学出版局

 この観念は今日、ヘルダーリンあるいはセザンヌマラルメマレーヴィチあるいはデュシャンを膨大な渦のなかに引きずり込んでいるごた混ぜの原則であり、この渦のなかで、デカルト的科学と革命的親殺し、大衆の時代とロマン主義的非理性主義、再現=表象の禁止と機械化された複製の技術、カントの崇高とフロイトの原光景、神々の遁走とヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮が混ざり合っている。

 いたるところを転々とし、誰に語るべきで誰に語るべきではないかを知ることもなく、エクリチュールは言葉(パロール)の流通の、つまり言葉の諸効果と共同の空間における諸々の位置取りとの関係の、あらゆる正当な基盤を破壊する。

 プラトンにとって、エクリチュールと絵画とは、無言の記号の表面、すなわち、生き生きとした言葉(パロール)を活気づけ、運んでいく息吹を失った記号の表面として、同等なものであった。


「感性的なもののパルタージュ(共有)」とは
ベンヤミンに倣って複製芸術(特に写真)の事のようだが
Twitterについても言えるかもしれない。


ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』(梶田裕訳、法政大学出版局

 機械的複製の時代における芸術に関するベンヤミンの諸テーゼの根強い成功はおそらく、マルクス主義唯物論による解釈の諸カテゴリーと、モダニティの時代を技術の本質の展開に帰しているハイデガー存在論の諸カテゴリーとの間の橋渡しをそれが請け負っているということに起因しているのだろう。

 ベンヤミンデュシャン、あるいはロトチェンコの時代には、この関係は電気と機械、鉄、ガラス、そしてコンクリートの諸能力に対する信頼に伴って生じた。

 つまり、それがまずもって、複製や伝播の技術とは別のものとして実践され、そのようなものとして認識されていなければならない。

 単にこの体制が機械的複製の諸芸術にかなり先立って始まったというだけではなく、それこそが、芸術とその諸主題=主体を思考する新たな仕方によって、これらの芸術を可能にしたのである。

 ひとつの時代(エポック)、そしてひとつの社会が、ありきたりな個人の顔立ちや服装の上に、あるいはまたその身ぶりのなかに読み取られるということ(バルザック)、下水道がひとつの文明を明かすということ(ユゴー)、農夫の娘と銀行家の妻が、「絶対的なものの見方」としての文体の平等な力のうちで捉えられるということ(フロベール)、高低の対立を消去する、あるいは転覆するこれらすべての形式は、機械的複製の諸能力に先行しているというだけではない。これらの形式が、機械的複製が機械的複製以上のものであることを可能にしているのである。

 むしろ、新たな歴史科学と機械的複製の諸芸術が、美的=感性論的革命の同じ論理のなかに書き込まれているのである。

 『毬打つ猫の店』の不調和で不安定なファサードの上で絡み合っているヒエログリフの前に読者を立たせるとき、あるいはまた、『あら皮』の主人公とともに、世俗的なものと聖なるもの、野蛮なものと文明的なもの、古代のものと近代のもの、それぞれがひとつの世界の縮図であるこれらのものたちが雑然と寄せ集められている骨董屋に読者を入り込ませるとき、そしてキュヴィエを化石からひとつの世界を復元する真の詩人であるとするとき、バルザックは、新たな小説の諸記号が、ひとつの文明の諸現象の描写=記述ないしは解釈の諸記号と等価であるような体制を築いている。


ヘーゲル『法の哲学』に出てきた不和(エントフレムドゥング)は
Entfremdungで、疎外と訳される事が多い。
ランシエールの不和はmesententeですね。

柄谷行人氏がサイード『世界・テクスト・批評』の影響で
セキュラー(世俗的)と良く言っていた時と
(氏は世俗の対義語である宗教の事を考慮していたのか)
浅田彰氏が「最近、セキュリティとよく言うけど
ケア(care、心配事)から離れるという意味なんですよ」
(自分の事しか考えないミーイズム?)と言った時は
別だったか。


secular 俗人の、世俗の、長年にわたる (secul現世+ ar〜の)
security 安全、防衛 [語源] se-(…から離れて)+L.cura(=care [心配])


山崎行太郎
http://twitter.com/yamazakikoutaro/status/11709692702
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20100407


有賀文昭 http://d.hatena.ne.jp/argfm/20100228