柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

東ヨーロッパの社会主義化は同時革命だったのではないか

廣松渉唯物史観と国家論』(講談社学術文庫

 勿論、われわれはマルクス・エンゲルスの永続革命論とレーニンのそれとの間に横たわる或る差異をも見落してはならない。一八五〇年三月の『共産主義者同盟中央委員会の回状』における永続革命論は、プロイセンの反動権力に対して、急進民主主義的ブルジョアジーが自らのヘゲモニー武装蜂起にたちあがるという想定のうえに立っており、したがって”別個に進んで同時に撃て”とされている。また、そこでは農民諸層を全体としてプロレタリアートの独自的武装、政権への可及的な参加、最小限綱領の圧し付け、二重権力状態の創出、恒常的”内戦”を闘い抜くとこを通じてのプロレタリア権力の樹立、という基本的なシェーマにおける同一性に眼を覆うことはできない(マルクス・エンゲルスの永続革命論とレーニンの路線との関係については拙著『現代革命論への模索』を参照されたい)。

 国家論との関係でわれわれがここで容易に諒解しうることは、固有の永続革命を実践的な課題としたレーニンにとって、彼の国家理論においては、打倒対象たるツァーリズムという”前近代的な”国家権力が強く表象されていること、そして同時に、労農独裁ひいてはプロレタリアート独裁の国家が、単なる遠い将来の理論的な展望としてではなく、すぐれて現在的な実践的関心の対象であったということ、――視角をかえて云い直せば、ロシアにおいては所詮「確立すべくもない」と彼の考えた西欧型の近代的ブルジョア民主主義国家は彼の当面する関心には殆んど登場しなかったということである。

 ところで、マルクス主義以前にも、狩猟的、牧畜的、農業的、工商的という――民族ひいては――社会の区別を意識したアダム・スミスの議論がある。彼によれば、しかし「分業が確立されると、あらゆる人は交換によって生活するようになる。つまり、或る程度みなが商人になり、社会そのものも、適切にいえば、一つの商業社会になる」のであるが、彼としては狩猟民のあいだでさえいちはやく分業と交換が確立すると考えているのであって、人びとの社会的関係は狩猟社会においてさえすら「商人的」である。


アーサー・C・クラークの『2010年宇宙の旅』は
ソ連の宇宙船・レオーノフ号に
アメリカ人のフロイド博士が乗り込み、
木星付近まで航行し
アメリカのディスカバリー号の調査を行う
というストーリーだった。