柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

perfumeとperformance

BSでPerfumeのライブを見ていて。
全編、クチパクらしい。
アニメの声優が登場人物の口の動きに合わせて
セリフをアテレコするのとは逆である。
ライブといえるのはダンスだけである。
メンバーはマイクを持って歌っているかのようであるが
聴こえるのは加工された声でステージで発したものなのか判然としない。
アニメと逆ではあるが、
 描かれた人物が話す/音に合わせて歌う
という
 実際の人物が話す/歌う
と異なった了解の上に成り立つという意味では同じである。


perfume [フランス語parfumer(par-十分に+fumareタバコをすう=十分に香りをかぐ). △FUME]
perform [古フランス語parfournir(par-完全に+fournir供給する). △FURNISH]


有難うございます。
suzuken2002 アニメの逆(対偶?)という視点は新鮮に感じます。RT @sasaki_makoto: BSでPerfumeのライブを見ていて。全編、クチパクらしい。 アニメの声優が登場人物の口の動きに合わせて セリフをアテレコするのとは逆である。 ライブといえるのはダンスだけである。


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)

第二〇章 商人資本に関する歴史的事実
 商業資本が未発展な共同体のあいだの生産物交換を媒介するかぎりでは、商業利潤は詐欺瞞着のように見えるだけではなく、大部分は詐欺瞞着から生まれるのである。
 商業と商業資本との発展は、どこでも、交換価値を指向する生産を発展させ、その範囲を拡大し、それを多様化するとともに世界化し、貨幣を世界貨幣に発展させた。
第五篇 利子と企業者利得とへの利潤の分裂 利子生み資本
第二一章 利子生み資本
 ここでは資本家はただ商品の売り手として現われるのであり、それは買い手が商品の買い手として現われるのと同様である。


売り手 → 買い手=売り手 → 買い手

商品は左から右に移動し、貨幣の移動はその逆方向である。

話し手 → 聞き手=話し手 → 聞き手

情報も同様に左から右に移動し、応答が逆方向か。
メール、Twitterも同様。


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)

第二一章 利子生み資本
 つまり、貨幣として前貸しされる場合にも商品と交換されるのではなく、商品として前貸しされる場合にも貨幣と引き換えに売られるのではない。
 貨幣資本の役割についての奇妙な見解は、プルードンのそれである(『信用の無償性。F・バスティア氏とプルードン氏との論争』、パリ、一八五〇年)。貸すということは、売るということではないという理由で、プルードンにとっては有害なものに思われる。
 ところが、プルードンが見ていないのは、貨幣が利子生み資本という形で手放される場合には、それにたいする等価はなにも取り返されてはいないということである。どの売買行為でも、およそ交換過程が行なわれるかぎりでは、たしかに目的物は手放される。
 交換、すなわち諸対象の交換が行なわれるかぎりでは、価値変動は起きない。
しかし、資本家によって剰余価値が生産されるかぎりでは、交換は行なわれない。交換が行なわれるときには、剰余価値はすでに商品のなかに含まれている。個々の交換行為を見るのではなく資本の総循環G―W―G’を見るならば、絶えず一定の価値額が前貸しされていて、この価値額・プラス・剰余価値または利潤が流通から引きあげられる。この過程の媒介は、もちろん、単なる交換行為では目に見えない。
  プルードンは次のように言う。「じっさい、帽子を売る帽子製造業者は……帽子のかわりにその価値を受け取るのであり、それより多くの少なくも受け取らない。ところが、貸付資本家……自分の資本をそっくりそのまま取り返すだけではない。彼は、資本よりも多くを、彼が交換に投ずるよりも多くを、受け取る。彼は資本のうえに利子を受け取る。」(六九ページ。)
どのようにして生産資本家は商品を価値どおりに売ることができるのか(生産価格への平均化はこの場合プルードンの見解にとっては問題にならない)、また、まさにそうすることによって、どうして自分が交換に投ずる資本を越えて利潤を受け取るのか、この秘密を明らかにプルードンは見破ることができなかった。
 このように帽子の価値は利子の支払によっては影響を受けないのだから、プルードンが次のように言っているのは無意味である。
  五六 それだから、もしプルードンの言うようだとすれば、「家」や「貨幣」などは、「資本」として貸し付けられるのではなく、「商品」として「費用価格で」(四三、四四ページ)譲り渡されるのだということになる。ルターはプルードンよりはいくらかましだった。
 どんなにプルードンが資本の性質を理解していないかは、彼が資本一般の運動を利子生み資本に特有な運動として述べている次の文章に現われている。
 「利子の蓄積によって、貨幣資本は交換が行なわれるごとに絶えずその源泉に帰るのだから、絶えず同じ手によって行なわれる貸付の繰り返しはつねに同じ人に利益をもたらすということになる。」〔一五四ページ。〕
 それでは、利子生み資本の特有の運動のなかでプルードンにとってどうしてもわからないのは、どういう点なのか?


資本の他に利子が発生するという事で
資本の本は元金を意味するのかもしれない。


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