革命理論は信頼できるか
ハーバーマス『理論と実践』(細谷貞雄訳、未來社)
批判(Kritik)と危機(Krisis)の両者は、単に語源的にだけでなく、同一の根から発源するものなのである。
すなわち、政治的な行動や制度は、もともと資本主義的生産過程から必然的に出現してくる利害の衝突から説明されなければならないであろう。マルクスはこのことを、とりわけ「フランスの内乱」を例として経験的に示そうと試みた。
マルクスは、夕闇が迫ったこと後ればせに二巻の『論理学』の中に自分のエピローグを追記させるような歴史の論理には、もう信頼をおいていなかったが、革命理論が市民社会の弁証法的解剖学から先取りした形で自分を実践的に完成し且つ止揚するよりほかなくなるような歴史の論理には、やはりまだ信頼をおいていた。
マルクスがそれに先立って神学的枠組を継承していたからこそ、世界歴史がそもそも始源と終末を具えた統一的全体として現われ、マルクスがこれを階級闘争の歴史として、階級支配の確立から始まり無階級社会にいたって終ると説くことができたのであるが、この神学的枠組の受容、一言で言えば、歴史哲学の問題設定そのものに流入してきて現代の危機的諸現象を世界史的な危機連関の全体性へ普遍化するこの先行的把握、――これはマルクスの論法の中では基礎づけられないのである。
資本主義的生産様式の貫徹にともなって、次第に広汎な社会的交易の領域が、交換関係へ解消された。
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ハーバーマス『理論と実践』(細谷貞雄訳、未來社)
カントは理論的理性と実践的理性を分離し、両者の結合をどこにも明快に示していない。このために彼は歴史に関しても、科学的考察の合理性と倫理的行為の実践とを克明に分け距てることを余儀なくされる。彼は道徳的経験の立場から歴史の意味への信仰を、実践的理性の格率から、理性の実現という理念が歴史の根底にあるという確信を、くみとる。これは言いかえれば、世界市民的社会(地上における神の国)が人類の本分であるという確信である。しかし他面において、理論的理性には限界があるので、われわれが自然意図として可能とみなす事柄を現実的に(すなわち完全に)知ることは妨げられている。したがって、歴史の歩みの構成はあくまで仮説的なものにすぎず、世界市民的社会と永久平和の理念のもとでの制度的可能性と妥当な格率との投企は、どこまでも実践的なものにすぎない。歴史の根源は仮説として憶測の域を出ないし、歴史の目標は理念として投企たるにとどまる。世界歴史の事実的な経過は、何をなすべきかを必至的に導きだせるようないかなる経験をも提供しない。
思想地図vol.4
中沢 僕の考える対称性人類学は、柄谷さんの世界宗教的なものとは相反するものではないと思っています。
中沢 ですからこの辺は、僕のほうが柄谷さんよりも哲学史家ドゥルーズに近いところがあって、それは単に論理の問題では解決できないことで、人間の歴史の中で実際に解決されてきたと考えています。
東 柄谷さんが世界宗教と呼んでいるものは、歴史的に見れば、一神教と多神教の相互貫入として歴史的に何回も現れている。
斎藤環「ラメラスケイプ、あるいは「身体」の消失
柄谷行人は近代文学や自然主義の描写は、前近代の不透明な言葉に対して、言葉を「透明」にすることで生まれたとしている。
それゆえ柄谷の言う透明性について、私は次のように考える。
中上は彼自身がすぐれた批評眼を持っていたと同時に、柄谷行人をはじめとする多くの批評家とも活発な交流を持っていた。
確かにそれは「近代文学の終わり」(柄谷行人)なのかもしれない。
東浩紀・宇野常寛・速水健朗・宮崎哲弥「変容する「政治性」のゆくえ 郊外・メディア・知識人」
宮崎 柄谷行人が一九九〇年代の末に「国家は表象を生み出すが、国家は表象によって生み出されたものではない」という優れて予見的な提起をぶち上げ、その後の政治―社会状況の変化に伴って、「いつまでも表象をめぐるお喋りをしていても仕方がないだろ。仮構にしろ実体的な力(実力=暴力)を認める以外には橋頭堡すら築けないぞ」という考えが急速に拡まった。
宮崎 例えば、萱野稔人なんか、柄谷テーゼを受けとめるかたちで「国家を言説や表象に還元する思考」を否定し、政治権力の作用をフィジカルな、実体的な運動として捉えなおさなければならないとした。
東 民主党政権の誕生はまちがいないでしょう。しかし、僕は新政権はじつは長く保たないのではないかと思っています。
宮崎 その前史として柄谷行人の「暴力の発見」があったとみるべきですけどね。
中川大地「「生命化するトランスモダン」への助走―「環境」と「生命」の思想戦史
柄谷行人が『〈戦前〉の思考』というタイトルの講演録を上梓したのは、一九九四年のことである。
思想地図vol.5
北田暁大「社会の批評」
東は――いや、東は微妙だが、少なくとも東の議論をドラマタイズした浅田彰は――大澤真幸の「第三者の審級」論もそうした理論の一つの系として理解しているように思われる(東、浅田、大澤、柄谷「共同討議:トランスクリティークと(しての)脱構築」『批評空間』II一八号)。
●ブックガイド4「ハッキングの方法論の変位」
その意味で、「量」的には小さくはあるが、小熊的な言説分析と方向性を共有している(し、スタイルはまったく異なるが、どこか柄谷行人の『内省と遡行』〔講談社〕を思わせる作品である)。
長谷正人「「社会学」という不自由」
どうも違うらしいと考え始めたのは、カントの「理性の公共的な使用」と「私的な使用」に関する議論を(確か柄谷行人の議論を経由して)読み直したからだと思う。