柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

7月9日 布袋寅泰 ZEPP TOKYO

ヘーゲル『法の哲学』(中央公論社

§三〇八

 議会という要素のもう一方の部分には市民社会の動的な面が属する。この面は、外面的にはその成員が多数であるために、だが本質的にはその使命と仕事との本性のために、ただ代議士を通じてのみ議会へ入ってゆくことができる。これらの代議士は市民社会から代理として派遣されるのであるから、そのかぎり、市民社会が現にそうであるところのものとして代議士選出を行なうのは、たちどころに明らかなことである。――したがって市民社会は、個々人に原子論的に解体している社会がただ個々の一時的な行為のためにちょっとの間だけその場かぎりで集まるというかたちでこの代議士選出を行なうのではなく、もともと制度的に設置されているもろもろの組合や地方自治団体や職業団体などに分節されている社会として代議士選出を行なうのであり、こうしてこれらの団体は一つの政治的繫がりを得るのである。このように君主権の召しに応じて代議士を送る権限が市民社会に対して授けられており、同じくまた第一身分に対しても議会へ出る権限が授けられているということ〔§三〇七〕、このことのうちに、諸身分とその会議との現存在は、制度的に確立された独自の保証を得るのである。


ユルゲン・ハーバマス『近代の哲学的ディスクルスI』(岩波書店

 それゆえマルクスは『法の哲学』の三〇八節に非常にこだわり、それとの対決を行なう。この節でヘーゲルは「全体の関心事についての論議と決定にすべての個人が参与すべきである」という考えに猛反対しているからである。マルクス市民社会を、「みずから政治的社会に変わろうとしており、もしくは政治的社会を現実の社会にしようとする意図」をもったものと見る。