柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

田町のゲラゲラで免許証を提示しました

スラヴォイ・ジジェク大義を忘れるな』(青土社

「贈与論」においてマルセル・モースは、はじめにポトラッチの逆説的な論理、贈与物の相互交換という逆説的な論理を記述している。贈与と交換は、もちろん、それぞれに内在する論理からみれば対立している。贈与は本来、気前のよさを示す行為、返礼を期待せずに与えられるものである。それに対し、交換は、必然的に相互的である――私が何かを与えるのは、別の物と交換しようと思うからである。ポトラッチとは、この二つの傾向の短絡(交差)、すなわち、交換がそれとは正反対の、二つの自発的な贈与行為という形をとったものである(そして、もちろんここでの要点は、そうした贈与行為が交換に対して二次的なものではなく、交換に先立ち、その基礎となっているということだ)。


池田信夫 2010年07月08日 22:25 世界史の構造
「世界史」と銘打っているが、具体的な史実はまったく書いてない。その「構造」についての理論的な分析が行なわれているわけでもなく、マルクスウォーラーステインネグリ=ハートを接合し、カントの「世界政府」論で終わる荒っぽいものだ。『トランスクリティーク』から8年かかって書いたそうだが、中身はまったく進歩していない。

著者の問題意識は、マルクスの「土台=上部構造」図式を乗り超えて「資本=ネーション=国家」を統一的に語る枠組をつくりたいということらしい。それは晩年のフーコーも試みたことだが、両者を比べると著者の視野は狭く、勉強が足りない。宇野弘蔵廣松渉の影響が抜けておらず、図式が観念的で古い。いまだに経済システムを「商人資本と産業資本」などという話から説き起こすセンスは、若い世代にはついていけないだろう。

特にわからないのは、繰り返し出てくる「世界共和国」である。そんなものがどうやって可能なのか、そして何のために「国家を揚棄」するのかというモチベーションがわからない。ネグリ=ハートのマルチチュードも引き合いに出されるが、そこでテーマとなっている「コモンズ」も出てこない。「ネーション=ステート」を超えてめざす世界は、1章をさいている「アソシエーショニズム」らしいが、そんなものがナンセンスであることは著者の試みた革命ごっこ(NAM)の失敗でわかったのではないのか。

それに比べれば、ジジェクの『ポストモダン共産主義』のほうがおもしろい。ここでは「非物質的労働」が経済の主役になる時代には、物的資本の所有権をコアとする資本主義は時代遅れだという明確な時代認識があり、新しいコミュニズムがインターネットを核として再生するという、それなりにもっともらしい未来像が描かれている。

ただしジジェクは、今どき共産主義を語ることが「笑劇」だということは自覚しており、2008年に資本主義が「全面的危機」に直面しても、それに代わる未来像を描けない左翼のトホホな現状を自嘲的に語っている。それに対して、いまだに「世界同時革命」をまじめに語り、国連を世界共和国の原型として評価する本書は、徹頭徹尾ピンぼけというしかない。


890 :考える名無しさん:2010/07/14(水) 20:49:14 P
池田信夫のような新自由主義者ハイエクと同じで、市場主義と資本主義の
区別がついていない。だから柄谷の試みの重要性がわからない。

逆に国家主義者は柄谷が交換という次元で国家(および国連)を重視している
ことに気がつかない。柄谷はそこらの右翼よりもよっぽど歴史的な経緯として
の国家を重視しているのに、、、

多分現在柄谷を正当に評価できるのはニーチェを愛好しているような個人主義
的なひとたち=エゴイストたちだけだろう。

891 :考える名無しさん:2010/07/14(水) 21:05:14 0
市場主義と資本主義の間に、むしろそんなに明白な差異を見るのは、単に妄想

市場主義は必然的にどうしたって資本を前提にするようになるのだし
いつまでも単なるフリーマーケットでしかないような原始的、前近代的な状況を想定しているのは
単におつむが寒いだけでしょ

市場主義と資本主義の間でそんな明白な差異の線引きをすることは不可能だ

892 :考える名無しさん:2010/07/14(水) 21:07:08 0
更に言えば、今の柄谷というのは、ニーチェと何の関係もないよ

むしろ現実のニーチェならば柄谷みたいな生き方は嘲笑の対象でしかない


スラヴォイ・ジジェク大義を忘れるな』(青土社

 このように資本主義は革命の力学を流用するわけだが、これは滑稽な事態を生み出さないわけではない。これは最近発表されたことだが、イスラエル国防軍軍事学校は、イスラエル国防軍によるパレスチナ人民に対する市街戦を概念化するために、ドゥルーズガタリ、なかでも彼らの『千のプラトー』を体系的に参照し、それを「戦略理論」として用いている。そこで使われるスローガンは、「形態なき敵の実体」「フラクタルな機動作戦」「速度対リズム」「ワッハーブ戦争機械」「ポストモダンアナーキスト」「ノマドなテロリスト」である。彼らが依拠する重要な区別の一つに「平滑」空間と「条理」空間があるが、これは「戦争機械」と「国家装置」という組織概念を反映している。