柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

国連は未完のプロジェクトと考えられる

結局、11日に「世界」と「文學界」は
調布パルコで買ったが
ハーバーマス『認識と関心』
『コミュニケイション的行為の理論』(未来社
を買おうか悩んだ。また別の機会に。
文學界」の討論によれば
ハーバーマスは西洋中心主義であるという。


ユルゲン・ハーバーマス『引き裂かれた西洋』(法政大学出版局

 カントがこのように「市民的憲法体制」と「世界共和国」とを間違って重ね合わせたためにどのような厄介な結論に陥ったかを論じるつもりだが、その前に世界共和国というこの考え方がもつ世界市民的(コスモポリタン)な意味を明らかにしておきたい。世界共和国は、紛争解決の正当な手段としての戦争を戦争として行うことはありえない。なぜなら、世界共和国のように世界をすべて含むという意味での包括的な共同体の枠組みでは、「対外的な」紛争など存在しえないからである。
 もちろん世界共和国は、超国家的な法的秩序という考えに尽きるものではない。


Th. W. アドルノ『ミニマ・モラリア 傷ついた生活裡の省察』(三光長治訳、法政大学出版局
 禁欲主義の拠になっている快楽のはかなさは――忘却に沈んでいた男の生涯が、愛する女性の股間にたまゆらに照り返されるような至福の瞬間をのぞいて――快楽の名に値するようなものは本当はまだ存在していないということの保証である。


エマニュエル・レヴィナス『他性と超越』(合田正人、松丸和弘訳、法政大学出版局
 統制的理念たる無限は所与を構成したりはしない。


近畿大学柄谷行人氏にインタビューしたらしい。
「述4」に掲載されるのだろうか。
http://ccpc01.cc.kindai.ac.jp/ichs-html/home/book.html


カント "Zum Ewigen Frieden"

 理性に従って考えるなら、(……)諸国家にとって(……)無法状態から脱する方法は、次のような方法以外にはない。つまり、国家が(……)その粗暴な(無法な)自由を捨てて公的な強制法を受け入れ、こうして一つの(……)国際国家をつくり、これが最後には地上のすべての民族を包含するようになる、という方法である。しかし、諸国家は彼らが現在もっている国際法の枠で考えるので、このようなことを求めようとはまったくしない(……)。だから一つの世界共和国という積極的理念の代わりに、その消極的な代用物、戦争を防止するための国家連合という代用物だけで争いを好む傾向に歯止めをかけるしかない。


ユルゲン・ハーバーマス『引き裂かれた西洋』(法政大学出版局

 カントは、国際法を完全に立憲化し、世界共和国という形にする考えに最後まで固執していた。それにもかかわらず、彼は、国家連合というより穏健な考えを提案し、平和を志向しながらも主権は維持し続ける国家群の自由意志にもとづく国家連合に自らの希望を託することになった。

 国際連盟(Volkerbund)というプロジェクトは、相互に貿易を行う多くの共和国からなる国家連合が次第に拡大していくという考えでもある。

 とはいえ、カントは、この国家連合のプロジェクトを提案しても、世界市民的状態の理念そのものを撤回したわけではけっしてなかった。

 ―共和国には平和を求める本性がある。国際連盟の前衛はそうした平和的本性をもった共和国で構成される。

 また、こうした理念の適切な表現が、一つの世界共和国であるとするならば、それにもかかわらず、どうしてカントは後になって国際連盟(Volkerbund)のプロジェクトに重点を置くようになったのだろうか。

 カントは、世界国家の代用物として国際連盟を提唱して、厄介な問題を解決しようとしたが、その問題は、先に述べたような、経験的次元のものというより、実は概念的な性質のものであった。

 つまりこの概念上の諸問題を検討すると、国家中心的な国際法から世界市民法へのさらなる発展というよく根拠づけられた理念を、カントはまだ十分に抽象的に捉えていなかったという点に、われわれは気づくのだ。彼はこの発展の理念を世界共和国あるいは世界国家の理念と短絡させてしまう。

 カントは、国際連盟というプロジェクトの提案理由に、諸民族からなる一つの世界国家(Volkerstaat)という理念はよく見ると、概念として一貫していないことがわかるということを挙げている。

 この解釈に従えば、世界共和国の市民たちは、平和と市民的自由を保障されるとともに、これまで国民国家に組織された国民の一員として保有してきた実質的な自由を喪失することになる。

 単一の権力を独占した単一の者による世界支配か、それとも複数の主権国家からなる既存の体制か――結局のところ、この二者択一こそが、カントを悩ませて、国家連合としての「国際連盟」という代用物の考え方に逃げ道を見いだすゆえんとなったのである。

 カントは国家連合、あるいは世界共和国ないしは世界政府という選択肢を立てるのに、アナロジーを使っているが、そのアナロジーに従った概念構成は、世界市民的状態という理念に十分な根拠・理由を与えてはいるものの、その理念のいささか性急な具体化に走る傾向がある。

 とはいえ、侵略戦争の非合法化を自由意志にもとづいて宣言することで国家連合(国際連盟)の加盟国はともかくも一種の義務を自らに課すことになる。

 国家連合(国際連盟)と戦争の放棄とは、国際法の主体が有する加盟国の地位に依拠する論理的発展の枠で見ることができる。

 世界共和国という巨大な民主的連邦国家は誤ったモデルである。

 つまり、連邦制的な世界共和国の法秩序は一貫した個人主義にもとづいて作り上げられることになるが、それと違って、政治的に立憲化された世界社会は、グローバルかつ国際的なレベルで「国家を超えたガバナンス」のための制度や手続きを国家がもち、行えるように留保しているからである。

 この考えによるならば、スプラナショナルなレベルでは、適切な改革を経た国連が、平和の維持や人権政策といったきわめて重要な、しかし厳密に定義された機能をいかなる選別もなく実効的に、しかも世界共和国という国家的形態をとらずとも果たしうることになろう。