柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ユダヤ人はイエスを処刑したか

一九四七年八月 ゼーリスベルクの十箇条

 二、イエスダヴィデの家系のユダヤ人の母から、ユダヤの民から生まれたということ、イエスの永遠の愛と赦しはその民と世界中の人々を包み込んでいるということを思い起こさせること。

 七、イエスを処刑したという汚辱がユダヤ人たち全員にのしかかるような仕方で受難を示すのを避けること。事実、すべてのユダヤ人たちがイエスに死刑を宣したのではないし、ユダヤ人たちだけがその責任を負うているのではない。


E・カッシーラージャン=ジャック・ルソー問題』(生松敬三訳、みすず書房

 「一般意志(ヴォロンテ・ジェネラル)」の前には一切の個別的・個人的意志はうち砕かれる。

 自由とは、個人が自分の上に立てる厳格にして犯すべからざる法則への束縛を意味する。自由の真正かつ本来的な性格をなすものは、この法則からの離反離脱ではなく、この法則への自発的な同意である。そしてこれは一般意志(ヴォロンテ・ジェネラル)、国家意志において現実化される。

 まったく形式的に見ただけでも、ルソーはもちろん「一般意志(ヴォロンテ・ジェネラル)」と「全体意志(ヴォロンテ・ドゥ・トウス」とを明確に区別すべく充分に努力している。『社会契約論』には、その一般意志の内容がまったく量的に規定され、個々人の投票をただ数えることで算出されるかに思われる若干の箇所がないわけではない。

 奴隷の息子は奴隷として生れると言われるならば、それはかれが人間として生れるのでないと言っているにほかならない。真の、合法的な社会は決してそのような主張を正当化することはできない。なぜなら、その社会は、いかなる例外もなく、なんぴとも落ちこぼれることのありえない「一般意志(ヴォロンテ・ジェネラル)」の保護者そのものであるからである。

 一般意志としての意志の前にあっては、恣意は停止する。

 個人の意志そのものには働く余地を与えず、絶対的に一般意志に身を委ね自己放棄することを要求した『社会契約論』との明白な矛盾に陥ったのであろうか?

 真実に普遍的なものはむしろ、各人が自分自身の洞察によってこの洞察のうちに、またその力によって、自分の意志と一般意志との間の必然的な連帯を確認するときにはじめて発見される。


1762年 ルソー『社会契約論』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%A5%91%E7%B4%84%E8%AB%96
1776年 アメリカ独立宣言 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80
1789年 フランス革命 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD
1866年 福沢諭吉『西洋事情』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E4%BA%8B%E6%83%85
1872年 福沢諭吉『学問のすゝめ』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81
1877年 服部徳『民約論』
1882年 中江兆民民約訳解
1883年 原田潜『民約論覆義』


カントは、ルソーの『社会契約論』から
 個人=国家
 一般意志=国家連合
と考えたのではないか。
日本の明治維新においても
 個人=藩
 一般意志=日本国
と考えられたのかと思ったが
福沢諭吉の『西洋事情』はアメリカ独立宣言の翻訳であり
中江兆民らによる『社会契約論』の翻訳は明治10年代だった。