柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

他人の妻と性行為をおこなっても

G.ドゥルーズスピノザ 実践の哲学』(鈴木雅大訳、平凡社ライブラリー

それからまた、他人の妻と性行為をおこなっても、その行為がそれ自体としてもつ積極性においては自分の妻とおこなう場合となんら変わりはない以上、悪もまた善と同様なにがしかの価値をもつ〔なにほどかのものである〕ことを(スピノザ『往復書簡集』書簡番号20)認めざるをえないのではなかろうか。


スピノザ『往復書簡集』書簡番号23

たとえばネロによる母親殺しも、それがなにかある積極的なものを含むかぎりにおいては犯罪ではありませんでした。


フッサールデカルト省察』(浜渦辰二訳、岩波文庫

ここで重要なのは無限の統制的理念(イデー)(42)なのだ、と。

(42) カントは、「構成的(konstitutive)な原理」と「統制的(regulativ)な原理」を区別していたが、ここのフッサールの「統制的」という語もそれを念頭に置いていると考えられる。