柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

差異と抑圧

ユダヤ人のマルクスフロイトデリダにとって
抑圧や差異という言葉には
切実な意味があったのではないか。


レヴィナス『困難な自由』(法政大学出版局

 現代の無神論は神の否定ではありません。それは、『悲しき熱帯』の無差別主義(indifferentisme)です。

 ユダヤの神は、つねに大衆(multitudes)の神だったのである。

合田正人「訳者あとがき」

 「贈与することは、ある点では、精神的生活本来の運動なのです」(八一頁)とレヴィナスは記しているが、彼は、その倫理学を構成する仁愛も正義も、贈与も交換も、さらには分配、剝奪も、いずれもが「貨幣」と無関係ならざることをはっきり認めている。


アラン・バディウ『哲学宣言』(黒田昭信・遠藤健太訳、藤原書店)

 哲学が――哲学だけが――、その世紀における政治の変化に対して、その変化が崇高であろうと忌まわしかろうと、責任があると定立すること、それは、我々の反弁証法家たちの装置の最も内密な点に至るまで忍び込む、ヘーゲル的理性の狡知のような何かである。

 デリダは、彼に言わせれば、何か〈代補的(4)〉なものを求めています。

 (4)外からあるいは事後的に偶然に状況を補完し、いつのまにかその状況を反転させるものを代補と言う。

 党、プロレタリア独裁といった毛沢東主義の一連の基本的範疇や、私が他の多くの人たちと分かち合った経験は、現在ではもう廃れており、表すことも、再現することもできません。

 実のところ、今日において毛沢東主義者であると宣言するのは、誰もそれが何を意味するか知らないのですから、あまり意味がありませんが、これこれの理由で、あれこれの状況にあって、私は毛沢東主義者であったが、もうそこには戻らないと言うことには意味があります。