柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

グノーシス派の礼拝におけるオナニー

マックス・ウェーバー「「世界宗教の経済倫理」序説 比較宗教社会学的試論」
『宗教・社会論集』(林武訳、河出書房新社

 涅槃Nirwanaに入滅するのが仏教僧侶の確実な・無辺際な愛の感情、敬虔なヒンドゥー教徒バクティBhakti(神に没入する灼熱の愛)もしくは無感覚状態による法悦Ekstase、〔ロシヤの〕クリュストChlust派の鞭打ちの苦行Radjenieや踊り狂う托鉢僧などにみられるオルギアの法悦、神にとらえこまれていることGottbesessenheitならびに神をとらえていることGottbesitz、聖母マリアや救い主イエスへの愛のわずらい、ジェスイット派の聖心礼拝、静寂派における祈禱、敬虔派における幼児イエスにたいする、またその《傷口のいたみ》Wundbruheにたいするやさしい情愛、クリシュナへの思いわずらいにおける性的な・あるいはなかば性的なオルギア、ヴァラバカリアVallabhachariaの洗煉された祭祀の饗宴、グノーシス派の礼拝におけるオナニー、神秘的合一unio mysticaならびに全一者への瞑想的没入がしめすさまざまの形態――こうした状態はすべて、疑うべくもなく、まずもって、その状態そのものが直接に信徒にあたえる情緒的価値のゆえに所望されたのであった。


グノーシス主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9


エマニュエル・レヴィナス『われわれのあいだで 《他者に向けて思考すること》をめぐる試論』
合田正人・谷口博史訳、法政大学出版局

 そうなると、後退をつづける哲学の最後の仕事は、形而上学的と称される言語の脱−構築(de-construire)をその本義とすることになる。

 そこで、脱構築された建築資材を精神分析にかけることで、形而上学的言語のうちに、なんらかのイデオロギーの兆候を示すような意味を少なくとも見いだそうとする努力がなされることになるのだ。

 これが〈現象学的還元〉という革命であり、この革命は永久革命なのだ。

 超越、目覚め、覚醒、これらの永久革命は、意識の素朴さを除去することを気にかけた知、数々の帰結の意味について問うような認識論へと延長されてゆく知にとっても不可欠なものである。

 虐待され虐殺されたこれら六百万のひとびとの大半を占めたのは、東欧出身のユダヤ人たちであったが、彼らは、私たちの世界の曖昧さによって堕落させられることのもっとも少なかった人間存在を代表しており、殺された百万余の子供たちは子供としての無垢を有していた。

 御存知のように、旧約でも、神は人間のもとに降りてきます。父なる神は、たとえば『創世記』九章の五節や一五節で、『民数記』一一章の一七節で、『出エジプト記』一九章の一八節で、人間のもとに降下しています。

 言葉をつうじて、倫理的命令、愛しなさいという命令をつうじて、神の降下はなされるのです。


8月にウィークリーマンション東京白金で見たのは
放送大学・文献学だったと思う。
http://www.u-air.ac.jp/hp/kamoku/H21/kyouyou/B/ningen/s_1551400.html
日本書紀」には、「淮南子」他の多くの中国の文献、
というより名文集「芸文類聚」からの引用が多いという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
神武天皇ブッダと考えた為に即位を紀元前660年としたのか。
スメラ(=シュメール、ヒマラヤ、須弥山、チョモランマ、サミット)ミコトという説がある。
7世紀前半、唐にキリスト教ネストリウス派景教)が伝わった事により
古事記日本書紀天孫降臨神話が書かれたのではないだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
古代には仏教・キリスト教などを
現在のように区別しない人が多かったと思う。