柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

磯崎新・柄谷行人・伊東豊雄・浅田彰「情報・空間・建築」

磯崎新柄谷行人伊東豊雄浅田彰「情報・空間・建築」
『Any:建築と哲学をめぐるセッション 1991-2008』(鹿島出版会

伊東★ イチローの場合は、そういう情報空間をもう身体的につくりあげている。

伊東★ だから、磯崎さんが仙台のメディアテークのコンペの審査のときに僕の案を「メディアおたく的身体に対する建築」と言われたけれども、僕はまだガラス指向があって……(笑)。

せんだいメディアテーク http://www.smt.city.sendai.jp/


劉暁波『現代中国知識人批判』(野澤俊敬訳、徳間書店

中国の歴史上、秦代から現代にいたるまでの政治闘争は、すべて専制政権内部における権力と利益を争奪する角逐であった。こうした専制主義の内部闘争は、たとえどれほど非人間的なまでに残酷なものであろうと、いわゆる正義と邪悪、進歩と保守の是非の争いではなく、ましてや正しい路線と間違った路線との争いなどではない。それはただ最高権力を争奪する闘争にすぎず、中国の歴史上のたび重なる宮廷政変や農民蜂起と同じである。すなわち、「文革」の闘争はふたつの制度、ふたつの政体の間の闘争ではなく、同一制度、同一政体内部の権力争いである。中国歴代の統治者たちと同様に、共産党の指導者たちはこれまで一党専制の独裁体制を根本から改変しようとしたことはない。よって、厳密な意味でいうなら、これは政治闘争ではまったくなく、人間と人間との相互排斥であり、なんのルールもない、「人間は人間に対して狼である」(ホッブズ)という食い合いなのである。さらに踏み込んでいうなら、中国数千年の専制主義の内部の残酷な闘争でおびただしい量の血が流されて、人民の暮らしが乱されたにもかかわらず、こうした闘争にはなんの政治的な意義もなかった。莫大な犠牲の代わりに得られたものは、社会制度の改革ではなく、新たな独裁者の勝利であった。


フッサールデカルト省察』(浜渦辰二訳、岩波文庫

しかしこれは、モナド的調和という形而上学的な構築〔でっち上げ(28)〕として考えられているのではないし、モナドそのものも形而上学的な発明や仮説なのではない。

(28) フッサールは、「構成(Konstitution)」とは区別して、「構築(Konstruktion)」という語を、根拠のないまま上から理念を無理矢理押しつけて作り上げてしまう、という意味で使っている。