柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

暴力装置

 暴力に実質的に対抗できるのは同等の暴力だけである[4]。つまり、暴力を統制するためにはより強力な暴力、すなわち組織化された暴力が社会の中で準備されなければならない。軍隊、警察がこれにあたり、社会学者のマックス・ウェーバーはこれらを暴力装置と位置付け[要出典][5]、権力の根本にある暴力の独占において行使されるものだと定義した。

 5.^ ロシア革命を主導したレーニンも著書『国家と革命』の中で「oraganized violence」という言葉を警察や軍隊を指すものとして使っており、同じく「暴力装置」と日本語訳されているが、革命を妨げる機構という意味での「暴力」として使われており、ウェーバーのものとは本質的に異なるものである。また、太平洋戦争後の日本では自衛隊や警察を揶揄するレーニンの意図に近い意味で「暴力装置」という表現が使われた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B


萱野稔人の暴力論を読んだ時、
日本語の暴力という言葉には悪いイメージがあるから
議論が難しいと思った。


14日、川崎駅前で尖閣問題について
署名を求められたので応じた。
たちあがれ日本だった。
尖閣は日本の領土でなければならない、
菅内閣は弱腰外交であると特に思っていないが。
北朝鮮の不審船とは違うのだから
自民党政権であっても対応がそれほど違ったかは分らない。
菅・仙谷体制を支持します。
野党より言動が興味深い。
いつまで続くだろうと思いながら。
http://www.tachiagare.jp/emergency/


マルクスドイツ・イデオロギー』(MEGA 5, 23.、『全集』第三巻・真下信一訳・国民文庫、古在由重訳・岩波文庫

 諸個人はただ彼らの特殊な利益――彼らにとって自分たちの共同の利益とは一致しない利益だけを求めるのであって、およそ普遍的なものは共同性の幻想的な形態なのだからこそ、――この普遍的なものは彼らにとって「よそよそしい」、彼らから「独立した」ものとして、すなわちそれ自身同時に特殊的で独自でもある「普遍」利益とみなされるか、さもなければ、彼ら自身、民主制のばあいのように、この分裂のなかでたがいに相まみえなければならない。


エマニュエル・レヴィナス『聖句の彼方 タルムード――読解と講演』(合田正人訳、法政大学出版局

 もっと正確に言いますと、《同》の形がそこにおいて現出するような、存在すること(5)のなかでの人間と存在とのいわゆる相関関係の中断、それを表現することができるのでしょうか。

 (5)私たちはessanceと綴るが、これは「存在」という語の動詞的意味を示す抽象名詞である。

合田正人「訳者あとがき」

 因みに、カント的な国家連合の構想の核を成すものとして、ドイツ人とユダヤ人(ドイツのユダヤ人)との融合を語ったコーエンが、カントに関して唯一承服できなかった点、それがスピノザを経由したカントのユダヤ教理解だったのである。