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批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

夷千島王(えぞがちしまおう)

網野義彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫

 しかし近年の研究によって、これまで文字も農業も知らぬ「未開民族」とされてきたアイヌが、活発な交易民として十三世紀以降、北東アジアと本州とを結びつける重要な役割を果たしており、本書でもふれた「夷千島王(えぞがちしまおう)」を自称する人の出現も、そうした動きを背景に考える必要のあること、また琉球王国が日本列島・朝鮮半島・中国大陸・東南アジアの海域における交易活動を基礎とした「港市国家」ともいうべき実態を持っていたことなどが明らかにされており、これを視野に入れることなしに、日本列島の社会の地域的な個性を明確にすることはできない。

 高橋(公明)氏はまた、同じころ「夷千島王」と称する人が昆布などを貢物として朝鮮国王に使を送ってきた事実を紹介しているが(「夷千島王遐叉の朝鮮遣使について」『年報中世史研究』六号、一九八一)、これも日本海沿海地域という塚本(学)氏の仮説を裏づけるとともに、北方史に即しても重要な意味をもつといわなくてはならない。


夷千島王遐叉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%B7%E5%8D%83%E5%B3%B6%E7%8E%8B%E9%81%90%E5%8F%89


網野義彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫

嘉祥元年(八四八)、上総で「俘囚丸子廻毛」などの叛乱があり、政府は上総・下総・相模などの五国に命じてこれを討伐させ、貞観十七年(八七五)五月には、下総の「俘囚」が叛して官寺を焼き良民を殺したのに対し、武蔵・上総・常陸・下野などの国ぐにから兵三百人を発して鎮圧させている。

貞観七年(八六五)二月には、上総国市原郷の「俘囚」三十余人が叛し、官物を盗み取り、人民を殺したので、軍兵一千人によって追討したところ、山中に逃げ入り、捕えられなかったといわれている。

 東国では、寛平元年(八八九)、「東国賊首」「東国強盗首」、物部氏永らが蜂起し、その制圧には十年を要したといわれており、延喜元年(九〇一)には、朝廷が諸社に奉幣しなくてはならぬほどの深刻さをもった大規模な群盗の蜂起、「東国の乱」が勃発した。

寛平五年(八九三)には出羽渡島の「蝦夷」と奥地の「俘囚」との戦闘がおこり、東国の乱と同じ延喜元年、出羽でも「俘囚」が叛乱をおこしている。

下総国相馬郡にその根拠をもつ、将門の叔父に当たる良文の孫、前上総介平忠常もそうした武将の一人であり、その勢力圏は下総・上総から常陸に及んでいた。
 忠常はしばしば、国守に対する義務―「公事」を怠り、常陸守であった清和源氏源頼信に攻められ、「名簿」を提出してその家人となったこともあったが、長いあいだ権勢をふるった道長の死んだ翌年、長元元年(一〇二八)六月にいたり、下総権介として押さえていた下総を拠点とする忠常が、安房守を焼き殺し、さらに上総の国衙をもその手中に入れたという報が都にもたらされた。


平忠常 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%B8%B8