柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

6・11デモ 新旧混在 労組の旗と若者の音楽

 脱原発を求める機運の高まりを受け、デモ行進という行為が新たな存在感を示している。東日本大震災から3カ月となる11日、脱原発を訴えるデモに全国121カ所で計6万人以上(主催者発表)が参加した。インターネットを通じた日本発の呼びかけに応えたフランスなど11の国・地域を巻き込んだ「世界同時多発」デモになった。

 この日のデモは、特定の「中央会場」を決めない分散型で開かれた。都内だけでも千人以上のデモが3カ所で行われ、ほかにも各地域で数十人から数百人規模の集会が数多く催された。

 6・11のハイライトは東京・新宿だった。午後6時からの約2時間、新宿駅東口の通称アルタ前広場は、首都圏各地で行われたデモや集会から合流した2万人で埋め尽くされた。

 参加者は音楽を流したり、マイクを握ったり、様々な方法で脱原発を訴えた。労働組合ののぼり旗を掲げた比較的高齢の参加者たちの隣で、若者がギターをかき鳴らし、ドラムをたたき続ける。新旧の様式のデモが交じり合っていた。多くの警察官による過剰とも思える警備態勢の中で、場の雰囲気を明るく盛り上げていたのは後者だ。

 2003年のイラク反戦デモのころから注目された「サウンドデモ」の流れを引くスタイルで、生真面目さが目立つ旧来型に対し、DJや生バンドが大音量を響かせるなかで楽しく歩くことを特色とする。

 日中、7千人が参加し全国最大規模になった新宿のサウンドデモでは、「社会学者の小熊(おぐま)英二さんです」と紹介されてあいさつした小熊さんが「楽しくやりましょう!」と呼びかけた。

 60年安保以来、50年ぶりにデモに参加したと発言して反響を呼んだ評論家の柄谷行人(からたに・こうじん)さんも、新宿を歩いた。「原発が危険なことは、わかっていたのに何もしてこなかった。その責任の意識から歩きました」

 1960年、安保条約改定に反対し国会を包囲したデモ隊は30万人に及んだが、戦後日本のデモはここがピーク。60年代末にはベトナム反戦などで激しい学生デモがあったが、「当時、全共闘のデモは過激化し、普通の市民が参加できないものになってしまった」と柄谷さんは振り返る。

 サウンドデモの雰囲気が「あまり合わなかった」と言う柄谷さんだが、様々なスタイルの混在には肯定的だ。「それぞれが自分の好みで、好きなところに参加すればいい」と話す。ツイッターの普及などで、様々なデモ情報にアクセスしやすくなったことも、デモの多様化の一因だろう。

 一方、同じ新宿のデモにいた全共闘世代の文芸評論家、すが(糸へんに圭)秀実(ひでみ)さんは「脱原発といいながら、浜岡原発を止め、脱原発の姿勢を見せ始めた菅直人首相を擁護する声がないのは不思議だ」といぶかる。集会を含め、積極的に政治過程に参加しようという意見がほとんど出なかったのは、政党や大労組の指令で動くのではない自然発生的な盛り上がりのせいだろうか。デモをどのように持続させ、目的の実現へつなげるかが、次の課題だろう。(樋口大二)

◆祭りの一体感で議論の総意生む 小熊英二さん

 古代ギリシャの民会でも、スイスの直接民主制でも、共同体の構成員が集まって議論を盛り上げ、祭りのように一体感を高めて総意を決めました。集まって総意を生み出す感覚は、人間にとって楽しいもの。「楽しくやろう」というのはそういう意味です。

 戦後日本で有力だった共同体は、職場の一体感に基づく会社と組合でした。しかし社会構造が変わってどこにも所属できない感覚の人が増えると、会社や労組の集票力が弱まって選挙が人気投票のようになり、労組のデモも衰える一方、60年代からはベ平連など無党派市民や、スタイルや文化の一体感を基盤にした若者のデモが台頭した。持続性や統一性は劣るかもしれないが、言っても始まらない。それより長く日本で忘れられていた高揚感を多くの人に共有してもらうこと。楽しくなければ人は集まりません。(談)

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201106200148.html