柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

人類史的視点を持っていれば悲観的になる必要はない 柄谷行人 評論家

朝日新聞GLOBE 2010年7月5日 http://globe.asahi.com/feature/100705/04_4.html


COMPLEXのDRAGON CRIMEは天安門事件を批判した曲だ。


先日、丸川哲史氏に
子安宣邦氏がなぜ『劉暁波文集』(岩波書店)を
問題にしているのか聞く事が出来た。


劉暁波
1989年に中国で民主化運動が勃発すると、コロンビア大学の客員研究者として米国滞在中に即座に帰国を決め、運動に身を投じ、六四天安門事件直前、劉は他の知識人3名(侯徳健、高新、周舵)と共に、学生たちの断食抗議に参加した。人民解放軍天安門広場に突入する寸前、4人は侯徳健を推選し、学生たちに逃げ道を残すように軍と交渉し「四君子」と呼ばれた。事件後に「反革命罪」で投獄された。六四天安門事件の他のリーダーの多くが欧米からの圧力もあり「病気療養」の名目で出国許可される中で、1991年の釈放後も出国せずに引き続き文章を発表し、六四天安門事件の殉難者の名誉回復と人権保障などの民主化を呼びかけ、更に2度の投獄や強制労働を受けた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%9A%81%E6%B3%A2


対馬物語: 日韓善隣外交に尽力した雨森芳洲 田井友季子

いろいろな説があるが、一つは七世紀初めのこととして『隋書』に出てくるのである。飛鳥の朝廷が発した遣隋使の答礼として、隋から国使がわが国にやって来た。隋使は百済韓半島の西岸)から「行きて竹島に至り」南方に済州島をのぞみつつ、対馬壱岐を経て、竹斯国に達したという。この竹島が、どこの島をさしたものかは、明らかでない。
http://books.google.co.jp/books?id=VhahSNX_SjIC&pg=PA91&lpg=PA91&dq=%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF%E3%80%80%E7%AB%B9%E5%B3%B6&source=bl&ots=NoBe1tL0JZ&sig=NwSqeY57awecM55K2kIGEbEeM_c&hl=ja&ei=_eM4Tvm2DvCKmQXs5Li9Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=4&ved=0CDUQ6AEwAw#v=onepage&q=%E9%81%A3%E9%9A%8B%E4%BD%BF%E3%80%80%E7%AB%B9%E5%B3%B6&f=false
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B4%E4%B8%96%E6%B8%85

『隋書』

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

翌年(608)、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。