柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

小田亮「禁忌と意味生成」

小田亮「禁忌と意味生成――レヴィ=ストロースその可能性の中心」
記号学研究」第四号、出口顯編『読解レヴィ=ストロース』(青弓社

柄谷行人なら、これらの禁止を「自己言及性の禁止」と呼ぶだろう(16)。

この無根拠性を、柄谷は「ゲーデルの証明」という比喩で表すが、この数学的には問題のある比喩がある意味で秀逸なのは、禁止自体が不可避的に「インセスト」を生み出すということを、象徴的秩序の外部や起源にあるカオスに訴えることなく、換言すればカオスとコスモスの弁証法や発生論的記述によることなしに、禁止=交換による秩序形成=主体生成そのものの「決定不能性」に見出すからである。

(16)柄谷行人『隠喩としての建築』講談社、一九八三年
(30)柄谷行人岩井克人浅田彰「共同討議 マルクス・貨幣・言語」「現代思想」一九八三年三月号、青土社、二三三ページ


ポール・ド・マン "Autobiography as de-facement" in The Rhetoric of Romanticism
「磨損としての自叙伝」『ロマン主義のレトリック』(山形和美・岩坪友子訳、法政大学出版局

プロソポペイアとは、不在の者、死者、あるいは声なき存在に呼びかけるという虚構であり、その虚構によってそういった存在が応答する可能性を措定し、そういった存在に語る力を授けるのである。この転義法の語源であるprosopon poien、すなわち「仮面または顔(prosopon)を授ける」にはっきりと示されているように、その声は、口、目、そしてつまるところ顔を身につける。プロソポペイアは自伝の転義法であり、それによって人の名前は、たとえばミルトンの詩におけるように、顔のように理解され、また記憶されうるようになるのである。われわれのテーマは、顔を与えることと、顔を整えること〔顔〕と顔を崩すこと〔face and deface〕、figure、形象化と脱形象化[figuration and disfiguration]に関係している。