柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ハンナ・アーレント『政治とは何か』(岩波書店)

ハンナ・アーレント『政治とは何か』(ウルズラ・ルッツ編、佐藤和夫訳、岩波書店

したがって、自由な体制に対するギリシアの表現、「イソノミア isonomia」〔等しい者の統治〕を法の前での平等という我々の意味で誤解しているからである。しかしながら、「イソノミア」は、万人が法の前で平等だということでも、法律は万人に対して平等だということでもなくて、もっぱら、万人が等しく政治の営みを求めることができるということなのである。しかもこの営みは、ポリスにあっては、とりわけて、一緒に話しあうという営みなのであった。「イソノミア」は、それゆえ、何よりも、言論の自由のことであり、それ自体は「イセゴリア isegoria」と同じである。両方とも、後には、ポリュビオスにおいては単純に「イソロギア isologia」とも言われた6。

したがって、自由で、専政者に支配されていないポリスの中心概念である、「イソノミア isonomia」と「イセゴリア isegoria」という概念を困難もなくホメロスの時代に立ち返って移したのである(パウリとヴィッソーヴァ、上記引用箇所10)。

というのは、人間が存在するところではいつでもどこでも政治が存在するという考えは、それ自体が先入見であり、人類が最後には国家のない状態、つまり、マルクスにおいては政治のない状態に行くという社会主義的な理想は決してユートピア的ではない、ただ、身の毛のよだつようなことだというだけである25。

6 Victor Ehrenbeg, 「イソノミア」の項目、Paulys Realencyclopadie der classischen Altertumswissenschaften, Suppl. Bd. 7 (1950), Sp.293 ff. 参照

10 Ehrenberg, 前出。

25 原文では次の文章が括弧で続く。「マルクスは残念ながら、理論化であるよりもずっと歴史家として優秀だった。マルクスはたいていの場合、歴史的傾向として客観的に証明できる事柄を理論として言及し、概念的に厳密化した。政治的なものの死滅は、この近代の客観的に証明可能である諸傾向に属する」。


ウルズラ・ルッツ「編者の評註」

このポリス像はさまざまなニュアンスの違いを持っている(イソノミアという意味での平等の観念や、活動としての話しあいと意見表明としての言論の相違、あるいは、ギリシアとローマの政治理解の対立やその他多くのこれに類するものを指し示していたりするので)。


@ynytk
柄谷行人氏の「哲学の起源」最終回の精読&入稿、おわり。寝て起きたら、渡部直己氏の「日本小説技術史」最終回の精読&入稿。編集者冥利に尽きる24時間だ。帰宅しよう。
5時間前


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