柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

メルロ=ポンティ『知覚の現象学』

吉本隆明の『言語にとって美とは何か』、自己表出といった議論は
ソシュールよりメルロ=ポンティに近いのではないか。


メルロ=ポンティ『知覚の現象学

小説、詩、絵画、音楽などの作品は不可分な個体であり、それぞれが表現をおこなっている。だがこれらの個体において、表現という機能と表現される内容とを区別できないし、直接的な接触以外にはその意味を手に入れることはできない。

言葉、音楽、絵画など表現のさまざまな様式のあいだには根本的な違いはない。言葉は音楽と同様無言であり、音楽も言葉と同様語っている。

フランス語に吹き替えられた映画を観ているとき、わたしはただ発話と映像の不一致を認めるだけでなく、突如、あそこで違うことが言われているとわたしには思えてくる(……)。音響が故障してスクリーン上の人物が突如声を無くし〔それも〕さかんに身振りを続けている場合、わたしが急に把捉できなくなるのは、彼の話の意味だけではない。光景も変わってしまうのだ。いままで生気のあった顔は鈍麻し凝固して、狼狽した人間の顔のようになる。(……)観客にとって、身振りと発話は理念的意味に包摂されているのではなく、発話は身振りをとりあげ直し、身振りは発話をとりあげ直して、両者はわたしの身体を通して交流しあうのである。