柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

交換と仮象

アドルノ社会学と経験的研究」〔一九五七年〕
ホルクハイマー、アドルノ『ゾチオロギカ』(市村仁・藤野寛訳、平凡社

人類の運命を繰り広げる法則は、交換の法則である。

つまり、交換行為は、相互に交換される財貨を、それと同等のもの、抽象的なものに還元することを包含しているのであって、伝統的に言うところの物質的なものに還元されるのではけっしてない。

等価交換にあっては、ことは公正に運んでいるようであり、しかし、どこかあやしいものだから、この概念的存在は、生きた現実や一切の確固たる数値(データ)と比べて、仮象と呼ばれるかもしれない。しかしそれは、体系的な学問が現実を昇華してつくり出した仮象ではなく、現実に内在する仮象である。

使用価値に比べると単に頭で考えたものであるにすぎない交換価値が、人間の欲望を支配し、また人間の欲望に取って代わって支配している。つまり、仮象が現実を支配しているのである。

同時にしかし、その仮象は、もっとも現実的なものなのであり、世界が魔法にかけられる呪文である。この仮象を批判することは、客観的な交換制度は現実的なものとみなさるべきではない、と説明する科学の実証主義批判とは何の関係もない。

社会学的経験主義が、法則は現実に存在するものではないとする主張をたてに取るとき、それは事象の中にある何らかの社会的仮象を思わず知らず名指しているのであり、この仮象を誤って方法が生み出したものとしているのだ。

方法が物象的であるにもかかわらず、いや、あるがままに確認し得るものの偶像であるこのような物象性のゆえにこそ、この方法は、生けるもの、いわば面と向かって隣り合っているものという仮象を生み出す。この仮象を解体するという課題は、もしこれをとっくに解決したのでないとすれば、社会的認識の課題の中で一番後回しというものではいささかもないだろうに。

現象は常に本質の現象でもあるのであり、単なる仮象ではない。