柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

社会的諸交通形式

マルクスエンゲルス "Deutsche Ideologie"

 各個人、各世代が与えられたものとして見出す生産諸力、諸資本、社会的諸交通形式の総体は、哲学者たちが「実体」として、また「人間の本質」として思い描いたものの実在根拠であり、かれらが神格化したものの、また、それを相手に争ったものの実在根拠である……。


交通形式は柄谷行人が最近言っている交換様式に近いと考えられる。


ユルゲン・ハーバーマス『認識と関心』(奥山次良・八木橋貢・渡辺祐邦訳、未來社)

 その結果、ヘーゲルマルクスによる認識批判の自己止揚以来、客観主義の仮象は、もはやカントを頼りとしては打ち破ることができなくなった。

 ただ、事物の本質に向うと自称した理論と反対に、この実証主義は、仮象であることが暴露された本質性の国――つまりほかならぬ想像物に自分は興味がないと宣言するのである。

 実証主義の事実概念は、しかし、形而上学仮象の背後にある世界に対する批判的な立証責任を負うことによって、はじめて存在論的品格を保つのである。

 この概念の中には二つのもの、つまり直接に与えられたものという平明な意味と、それを前にしてはかつて形而上学が志向した本質も空虚な仮象となって四散するような真の存在という強調された意味とが押しこめられている。

 素顔の事実性は、本質と現象、存在と仮象の対立を知らない。

 認知意義のある体験は、そのいずれもが作品的(ポエーティッシュ)性格をもっている――もしも作出(ポイエシス)が、意味の創造を、すなわち、精神が自己自身を客体化する生産過程をまさしく指しているとすれば。

 言語と行動とは、交互に解釈される。このことは、ヴィットゲンシュタインの言語遊戯という考案のうちに展開されている。

 なぜなら、精神科学の中で仕上げられた解釈学の方法は、たしかに、個体の意味から非合理性の仮象を、また伝承された意義内容の会得からたんなる恣意の疑いをすっかり取り払うはずだからである。

 カントは、整合的にも、この矛盾を実践理性の先験的仮象としては論じない。


オートポイエーシスのポイエーシスはポエム(詩)、吉本隆明のいう自己表出につながるのか