柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

國分功一郎氏

佐々木 真
自身も積極的にデモに参加している哲学者の柄谷行人が、久野収の言葉を引きながらデモについてこう言っている――民主主義は代表制(議会)だけでは機能しないのであって、デモのような直接行動がなければ死んでしまう。國分功一郎 http://t.co/ye8KwADq
58分前

國分 功一郎 引用ありがとうございます。ただ、エッセイにも書きましたが、最終的には僕は柄谷の見解には疑問を持っています。
40分前
佐々木 真 柄谷氏は最近、ヒトラー大阪市長を生むアテネのようなデモクラシーに対して、イオニアのイソノミアには個人の自由があったと言ってますが、最近の「政治と思想」の帯に「民主主義を殺さないために」と書かれてます。資本=国家批判の根本には個人の自由があるようです。國分さんの「暇と退屈の倫理学」の人類学的考察は柄谷氏のいくつか接点がありますね。http://d.hatena.ne.jp/sasaki_makoto/20120310 http://d.hatena.ne.jp/sasaki_makoto/20120311
2分前


http://ameblo.jp/philosophysells/entry-11190461401.html
 最近、日本では脱原発をテーマに掲げたデモが社会的関心を集めるようになってきた。自身も積極的にデモに参加している哲学者の柄谷行人が、久野収の言葉を引きながらデモについてこう言っている――民主主義は代表制(議会)だけでは機能しないのであって、デモのような直接行動がなければ死んでしまう(「反原発デモが日本を変える」。〈柄谷行人公式ウェブサイト〉より)。

 私は柄谷の意見に賛成である。だが、少し違和感もある。なぜならデモは、民主主義のために行われるわけではないからだ。民主主義という制度も含めた秩序の外にデモは触れてしまう。そうした外を見せつけてしまう。だからこそ体制にとって怖いのだ。民衆が路上に出ることで民主主義が実現されるというのは、むしろ体制寄りのイメージではないだろうか。この点は実はデモをどう組織していくかという実践的な問題に関わっているので、次にその点を考えよう。