アラン・テスタール『新不平等起源論』(法政大学出版局)
縄文(最古の土器)、アイヌ、北海道への言及が意外だった。
アラン・テスタール『新不平等起源論 狩猟=採集民の民族学』(山内昶訳、法政大学出版局)
ところで、数多くの研究からいまや明らかにされているところでは、日本の縄文時代のセラミックが、世界で最古のものだか、この時代には農耕の痕跡はみられないのである。
「セラミックの製造というこれほど進化した技術が、世界のどこよりも日本で古くから更新世末にみられ、この技術が確信をもってつねに結びつけられてきた農業の登場より一万年も先行していたという最近の証明ほど、センセーショナルなものはない。」縄文土器は、日本に遅れて入ってきた農業に先行していただけではなく、世界のどの農業よりも先行する古い日付(BC一万年から一万一〇〇〇年)をもっていたのである。
縄文時代とナトウフィアン期の例からも明らかなように、農業と密接に関連するとずっと考えられてきた二つの特徴、つまり土器と定住とは、じっさいには狩猟=採集民によって考案されたものにほかならない。
いくつかの集団については確かにこの条件があてはまると想像できるが、とはいえ大多数の狩猟=採集民、とりわけ渡辺があげている二つの集団、つまり北海道のアイヌ人と合州国西部の大盆地(グレート・ベースン)のオーエン渓谷のパイユート族の定住を説明するには、十分ではないと私には思われる。
アイヌ人は、とりわけ魚についてはすぐれた備蓄者だった。
発見されたいちばん古い土器は、更新世末の日本のもので、農耕に先立っていたのである(第I章6を参照)。
定住漁撈民のこのエリアに、一部はシベリア南東部(サハリンの南とクリル諸島)に住み、他は現在の日本の北(北海道)に住むアイヌ人全体をふくめておこう。
クリル諸島のアイヌ。北海道のアイヌ。サハリン南部のアイヌ。サハリン北部とアムール河口のニヴヒないしギリヤーク。
ニヴヒとアイヌ族のあいだのサハリンに住んでいるが、たぶん一七世紀ごろ大陸から渡ってきた、トナカイ牧畜民であるオロッコ族も、ここではとりあげないでおこう。
アイヌ族の領域でも、大きな多様性がみられる。大きな島である北海道の内部では、時として狩猟が漁撈をその重要性を競うことがあった。このエリア全体からみると明らかに南方に位置しているせいであろうか、北海道のアイヌ族はいくつかの非典型的な特徴を示している。
クリル諸島のアイヌ族についていうと、海洋性哺乳類や水鳥が、食料としても衣類としても重要だったが、これはその島嶼性の反映だろう。彼らはいちばん非定住的なアイヌ族として通っているのである。
カムチャツカは巨大な半島だし、サハリンと北海道はきわめて大きな島である。
アメリカ北西部にそって一月の等温線がマイナス一〇度以下にさがるところはどこにもないが、これに対し、アジアのエリアでは、北海道、クリル諸島、カムチャツカの南部以外、事情は同じではない。
すぐその南の民族、中国、コリア、日本の農耕民は古くから国家組織をもっていたのにたいして、彼らは野蛮人を代表していた。
アイヌ族はおそらく、一〇〇〇年以上も前から強国の国境で暮らしていた狩猟民のすぐれた事例を提示してくれるだろう。八世紀以前から、本州北部のアイヌ族は日本国と戦い、この島から排除されてしまった。一五九九年以後、日本の一族が北海道の南に移住し、日本人とアイヌ人との交易を独占したと主張する。
一九世紀末は、サハリン島で、ロシアと日本の植民地主義の対抗が激化した時期で、植民による土地開発、強制監獄の設置、虐殺と人口移転がこの時期におこなわれたのである。
一九世紀前半以来、北海道のアイヌ族は、沿岸に設置された日本の番所で強制的なサーヴィスに従わされた。一八六九年にこの制度は廃止されたが、島は日本の領土と宣言され、日本の植民がこの時からどっと押しよせてきたのである。一八八三年、日本政府はアイヌ族に農業を導入する計画を決定した。
(1)日本起源とみなされるアイヌの織物のような、あるいはアイヌ族やアムール下流での、鍛造はされたが生産はされなかった鉄の冶金のような、狩猟=採集民には通常異質の技術の導入。
北海道内部の山岳地帯でさえ、一家族の年間調達量は、ある種のサケ五〇〇から六〇〇匹、他種のサケ六〇〇から八〇〇匹にものぼった。
北海道のアイヌ族については、渡辺の仕事のおかげで、すぐれた情報がある。
ドッグ・サーモンの秋の回遊が不十分だったので、一七二五年の冬には二〇〇人ものアイヌ族が餓死した、と渡辺は述べている。
こうした局面はともかく、アイヌ経済にとってのドッグ・サーモンの決定的な重要性は、この動物性は、この動物にかかわる信仰や儀礼の重要性のなかにみられる。
サハリンのアイヌ族では、ニシンが五月、マスが六月と七月、つづいてサケ漁となっている。