柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

仏陀とその時代

エリアーデ世界宗教史3』(ちくま学芸文庫

 生まれるやいなや、菩薩は北に向かって七歩進み、獅子の「咆哮」によって、「私はこの世でもっとも高貴な者、すぐれた者、最年長の者である。これは私の最後の誕生であり、将来ふたたび新たに生まれかわることはない」と宣言した。

 バラモン教の寺に連れていかれると、神々の像が「その場所から立ちあがり、菩薩の足下に身を投げ出し」、「(彼を称える)讃歌を歌った」のである。

 ヒマラヤからカピラヴァストゥまで飛んできた仙人のアシタは、新しく生まれた赤ん坊に会うことを求め、腕に抱いて、この子が将来仏陀になることを理解するが、自分がそれまで生きながらえて、仏陀のあとに従うことができないのを知って泣いたのである。

 そこで、(マーラは)たくさんの女たちが苦行者のまわりをとり囲み、裸体や魔法で誘惑しようとしたがむだであった。

 「七歩」のテーマは、聖母マリアの誕生にも現われている。「ヤコブの原福音書」第6章と、Henri de Lubac, Aspects du Bouddhisme(Paris, 1951), pp. 126-27 の注釈を参照。
 菩薩が寺に連れてこられたときの話は、「偽マタイ福音書」(13章)のエピソードに比較されている。「聖母マリアが幼な児とともに(エジプトの)寺院へ入っていった時、偶像は地面に倒れた」。しかし、二つの物語はあきらかに対立している。エジプトの偶像は、キリストが偽りの神々を葬り去ったため永遠に倒れたままなのに対して、バラモン教の神々は、未来の救世主を讃えてひれ伏したからである。

 アシタの預言は、幼な児イエスを腕にだき、神を祝福した老シメオンのエピソードに比較される(「というのも、私はあなたのお示し下された救いをこの眼で確かめたからです……」『ルカによる福音書』第2章 8-20,25-35)。

 マーラの誘惑については、E. Windisch, Mara und Buddha(Leipzig, 1895)を見よ。ヴィンディッシュは、数多くの物語を翻訳している(pp. 87 sq.)。また、イエスの誘惑(『ルカによる福音書』第4章1-13)との比較分析をした ibid., pp. 214 sq. を参照。


菩薩=めざめつつある者
シッダールタ=達成された目標
ゴータマ=シャカ族のなかでのその家族名
シャカムニ=シャカ族の苦行者
であるという。


naminosadarou 6月28日
@sasaki_makoto @naagita @Sukuitohananika @decocooln 『過去現在因果経』(5世紀に漢訳)』http://www.archive.org/stream/kokuyakuissaiky138800uoft#page/370/mode/2up にも同じシーンがありますね。釈迦の未来を予言した後、寿命が来て説法を聞けないと嘆く。

@sasaki_makoto アシタ仙の話は大方広荘厳経(ラリタヴィスタラ)http://www.sol.dti.ne.jp/~shiraka/borobudurreliefs2.htmが出典でしょうか。釈迦の教えを聞くこと適わないと嘆くアシタに対しシメオンは神を称え「この僕を安らかに去らせてくださいます。私の目がいま貴方の救いを見たのですから」

t@sasaki_makoto @naagita @Sukuitohananika @decocooln イエス伝説は原典名まで明示なのに、仏伝は孫引きなわたりが限界を感じさせますね。ソースの仏典名と成立年代次第で影響元と影響先があべこべになりますね。