柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

存在論的

エマニュエル・レヴィナス『倫理と無限 フィリップ・ネモとの対話』(西山雄二訳、ちくま学芸文庫

思うに、机上の読書に頼ることがきわめて懸念され、人間の「存在論」に関して書物を参照するということが過小評価されています。

直線的で等質な時間には還元されえない持続の、たんに心理的であるだけにとどまらない、いわば「存在論的な」優先権についてのこうした主張がなかったならば、ハイデガーも「現存在(Dasein)」の有限な時間性という考え方をあえて提起することはできなかったでしょう。

存在論は、存在するもの、もろもろの存在、すなわち、「存在者たち」、それらの本性、それらの関係を探究するいかなる学問分野とも区別されます。

私はフッサールを、存在についての存在論的問題に気がついた人物、すなわち、もろもろの存在に共通する通性原理に関する問いよりも、むしろ境位〔ステータス〕についての問いに気がついた人物として紹介しようとしたわけです。

人間の実存は、たんに基礎的存在論の「場」として彼(ハイデガー)の興味を引いたのです。

実存それ自体はいわば志向性の結果として、ある意味によって、つまり無の原初的な存在論的意味によって生気を与えられます。

ハイデガーに関しては、実際、基礎的存在論とその問題性を知らずにいることはできません。

主体の我はその男らしさのなかにあると仮定され、また、女性であることに固有の存在論的な構造が究明されてさえいますが(これについては後で一言つけ加えます)――まったくの時代錯誤でしょうか――女性的なものは本性的な他者として、まさに他者性の概念そのものの起源として記述されています。

他方でまた、おそらく、男性的なものと女性的なものとの存在論的な差異に関するこのような暗示はすべて、もし、それが人間を二つの種(あるいは二つの性)に分けるのではなく、男性的なるものと女性的なるものの分有がいかなる人間存在にも固有のものである、という意味であるとすれば、さほど古めかしいものとは思われないでしょう。

私が強調したいのは、一方では実体の、他方では超越論的な主観性の、存在論的、また論理的でさえある条件の大変動――これが何を意味するのか、ということです。

心理学的な「波乱(アクシデント)」というのは、存在論的な関係が明るみに出る回路だと思います。