柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

秋葉原ワシントンホテルで夕食を

sasaki_makoto2012-08-12

和賀正樹「移動と遊行――中上健次の宗教空間」

● 部落寺院(エタ・穢多寺)・・・江戸時代に発生。西本願寺が537寺(近世末)、東が124寺(1922年)。河原門徒。穢僧は本山で剃髪できず。「自剃刀」。学林・学寮で学べず(1783年)。 ※東本願寺大谷大学西本願寺龍谷大学
本願寺での着座も下座。法事の器もちがう・・・「同火共食の禁」
● 中本山という制度・・・「ケガレ」排除のシステム
西本願寺の中本山は25寺。本照寺が最多の部落寺院を引き受ける。
「四ケ之本寺」の教徳寺、西金福寺、福専寺、万宣寺は末寺すべてが部落寺院。
穢寺の待遇:本願寺への寺号、木仏、本尊、「南無阿弥陀仏」の六字名号、親鸞の絵伝の代金、上納金は一般の寺の5割増し。狭い内陣。角柱のみ。漆塗り、鐘楼は禁止。
皇族との姻戚関係:西本願寺 22世法主大谷光瑞の妻の姉・節子が大正天皇と結婚。
        :東本願寺 24世・光暢の妻の姉・良子が昭和天皇と結婚(香淳皇后)。
     (『熊野・被差別ブルース 田畑稔と中上健次のいた路地よ』和賀正樹・現代書館 ご参照)


大谷 籌子(1882年11月5日 - 1911年1月27日)は西本願寺法主大谷光瑞の妻(西本願寺裏方)であり、女性組織仏教婦人会などで活躍、女子高等教育の必要性をとき九条武子とともに京都女子大学設立の推進者となった人である。
1882年(明治15年九条道孝の三女として生まれる。妹は、大正天皇の后である貞明皇后九条節子)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E7%B1%8C%E5%AD%90
大谷 智子(1906年明治39年) 9月1日 - 1989年(平成元年)11月15日)は、日本の元皇族で、旧名は智子女王。香淳皇后の妹。東本願寺第24世法主・大谷光暢の妻。
1906年明治39年) 9月1日、久邇宮邦彦王の第三王女として東京で生まれ、学習院初等科を卒業。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%99%BA%E5%AD%90


慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が没すると、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いに勝利し、実権を握った徳川家康は戦に協力した教如を宗主に再任させようと考える。しかし三河一向一揆で窮地に陥れられた経緯があり、重臣本多正信の「本願寺の対立はこのままにしておき、徳川家は教如を支援して勢力を二分した方がよいのでは」との提案を採用し、本願寺の分立を企図する。
慶長7年(1602年)、教如に七条烏丸に四町四方の寺地を寄進され、東本願寺が分立する。このため准如が継承した七条堀川の本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになる。本願寺の分立にともない、本願寺教団は東西に分裂する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E5%A6%82


10日、渋谷パルコ。
蒼龍唐玉堂で昼食。
世界9月号
小林敏明『フロイト講義〈死の欲動〉を読む』(せりか書房
を購入。
秋葉原ワシントンホテル・ボンサルーテで夕食。