柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

折口信夫「沖縄に存する我が古代信仰の残孽(一)」

折口信夫「沖縄に存する我が古代信仰の残孽(一)」
折口信夫芸能論集』(安藤礼二編、講談社文芸文庫

 沖縄の宗教は、僧袋中の命けて、「琉球神道」と申し候とおり、我が国の固有信仰と全く同一系統に属するものに有之、神道の一分派或は寧ろ、其原始形式をある点まで、今日に存したるものと申す事を得べきものに御座候。


伊勢神宮の東南アジアの倉庫との類似、
折口と対立したという柳田國男の南島論を思い出す。
沖縄の古代信仰が本土の神道に類似している事は示唆的で
オーストラリアにおけるアボリジニに対応しそうだが
イギリスからの移民の子孫に残る古い英語に対応するのかもしれない。


柳田國男海上の道』
日本文化が沖縄諸島から南島づたいに伝播してきたという考察。沖縄に稲作文化が無かったことから、発表当初から否定的な見解が多かった。現在でも、沖縄を含む日本列島の文化を構成する要素の多くはユーラシア大陸からもたらされたと考えられている。ただし、縄文時代に行われた陸稲栽培については南島からの伝播が有力視されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9C%8B%E7%94%B7

現在は琉球王国という表記が一般的だが、当時の名称は琉球國である。琉球の名称は、7世紀の中国の史書『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國條に記述される、大業6年(610年)に隋に服属した国、流求に由来するが、この「流求」がそのまま「琉球王国」(今日の沖縄県周辺)を指したわけではない。
隋書においては、「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD
『随書』の記事は、607年(大業3年)と翌年にみえる。『日本書紀』では616年(推古天皇24年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見える。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
753年 鑑真を乗せた遣唐使船が阿児奈波(あこなは、現在の沖縄本島)に漂着。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8