柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

垣口由香「歓待の失敗 『ゴドーを待ちながら』と他者の迎え入れ」

岡室美奈子・川島健・長島確編『サミュエル・ベケット!―これからの批評―』(水声社) にある
垣口由香「歓待の失敗 『ゴドーを待ちながら』と他者の迎え入れ」は
カント、バンヴェニストデリダが言及した歓待に注目していて刺激的だった。


垣口由香「歓待の失敗」『サミュエル・ベケット!』(水声社

 つまり、都市国家期の古代ギリシャ・ローマの歓待とは、特別な契約を取り交わした客のみに与えられる権利であり、歓待を成立させる第一の条件は人道主義ではなく、あくまでも「互酬関係」を保証する契約なのだ。


イマニュエル・カント『永遠平和のために』(宇都宮芳明訳、岩波書店

 世界市民法は普遍的歓待の諸条件に制限されなければならない。

 ここでもこれまでの条項におけるのと同じように、問題とされているのは人間愛ではなく、権利であって、歓待(主人の客に対する処遇)と言っても、それは異邦人が他国の土地に足をふみ入れても、それだけの理由でその国の人間から敵意をもって扱われることはない、という権利のことである。


ジャック・デリダ『アデュー――エマニュエル・レヴィナスへ』(藤本一勇訳、岩波書店

 〔カントの〕普遍的歓待は訪問の権利しか許さず、居留の権利は与えない。普遍的歓待は国家市民にしか関与せず、その制度的性格にもかかわらず自然権に立脚する。


ジャック・デリダ『歓待について――パリのゼミナールの記録』(廣瀬浩司訳、産業図書)

 これは、彼ら〔異邦人〕が名前で呼ばれる可能性、名前を持ち、法の主体となる可能性、つまり尋問され、刑を受ける義務を持ち、責めを受け、責任があり、名付けうるアイデンティティを持ち、固有名を与えられた主体となる可能性にほかなりません。固有名はけっして純粋に個人的なものではないのです。

 絶対的な歓待のためには、私は我が家を開き、(ファミリー・ネームや異邦人としての社会的地位を持った)異邦人に対してだけではなく、絶対的な他者、知られざる匿名の他者に対しても贈与しなくてはなりません。


エミール・バンヴェニスト『インド=ヨーロッパ諸制度語彙集1』(蔵持不三也・田口良也ほか訳、言叢社

 客人歓待の正確な概念はまさにここに由来するものと思われる。換言すれば、hostisとは《互酬関係にある者》を意味するのであって、これが客人歓待制度の土台となっていたのだ。