柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

折口信夫「異郷意識の進展」

折口信夫「異郷意識の進展」『折口信夫文芸論集』(講談社文芸文庫

即、出石の神宝を護っている、此民族の中から出た田道間守がときじくのかぐのこのみを将来した南方支那は、出石人の故地であったのである。

後の浦島ノ子伝説は勿論、既に田道間守の話にも驚くべき長い時間が考えられている。

のすたるじいを持たぬ新日本人として、伝説的に呪われていたのは、かの仲哀天皇で、新羅王の末なる神功皇后と並べて見れば、そこに理智と感情の争闘が見えるではないか。


古事記
新羅王子・天之日矛―多遅摩母呂須玖―多遅摩斐泥―多遅摩比那良岐―多遅摩毛理
 多遅摩比那良岐―多遅摩比多詞―葛城高額比売―神功皇后応神天皇
日本書紀
新羅王子・天日槍―但馬諸助―但馬日楢杵―清彦―田道間守
意富加羅国(おほからのくに)王―都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)・于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)―○―○―○―葛城高顙媛―神功皇后応神天皇


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%82%E3%83%9E%E3%83%A2%E3%83%AA
古事記』では多遅麻毛理、『日本書紀』では田道間守と表記される。
新羅から渡ってきたアメノヒボコの曾孫である。11代垂仁天皇の命により、非時香菓を求めて常世の国(祖先の国である新羅のこととも)に渡った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
神功皇后(成務40年(170年) - 神功69年4月17日(269年6月3日))は、仲哀天皇の皇后。
父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛裔・葛城高顙媛。彦坐王の4世孫、応神天皇の母であり、この事から聖母とも呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3
アメノヒボコ天之日矛、天日槍)は、『古事記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。
古事記においてアメノヒボコ阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(田道間守{日本書紀})であり、次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。
なお、アメノヒボコ新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。)

天日槍ゆかりの神社 http://sakezo.web.fc2.com/hiboko5.html
多遅摩毛理 http://www.genbu.net/saijin/tajimamori.htm
天之日矛 http://www.genbu.net/saijin/hiboko.htm


三国時代の地図、5世紀終わり頃

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E8%A7%A3%E5%B0%BC%E5%B8%AB%E4%BB%8A
脱解尼師今は、新羅の第4代の王(在位:57年 - 80年)であり、姓は昔、名は脱解。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。