柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

共同して飲食すること

(マタイ二六章26)、マルコ一四章22、ルカ二二章19

〔これを〕取りなさい。これはあなたがたに与えるわたしの体である。わたしを記念するためにこれを取りなさい。


マタイ二六章27〜28、(マルコ一四章24)、ルカ二二章(19)、20

同様に酒杯をとって言う。あなたがたみな、この杯から飲みなさい。これは、罪の赦しを得させようとして、あなたがたと多くの人々のために流された、わたしの新しい契約の血である。わたしを記念するためにこれを飲みなさい。


ヘーゲルキリスト教の精神とその運命』(平凡社ライブラリー

 それゆえ、この晩餐は、友愛〔の発露として〕の会食と宗教的行為との間を浮動しているのであって、この浮動が、この晩餐の精神を明示しにくくさせているのである。

 〔それにひきかえ〕誰かある人と飲食を共にするということは、一つの合一化の行為であり、感情のこもった合一〔和合〕そのものであって、協約にもとづく徴しといったものではないのである。

 〔それゆえ、〕イエスとその弟子たちとが晩餐を共にしたということは、それ自体すでに一つの友愛の行為なのである。〔しかし〕その結びつきをさらに一層強めるものは、同じパンを祝福して食し、同じ酒杯から飲んだということである。

 このイエスの宣言や、それと結びついている――食物と飲物とを分かち与えるという――行為は、かの〔愛の〕感情を部分的に客体化するものである。

 イエスの死後、彼の友人たちは結束を固め、飲食を共にした。

 だがこうした共同の享受、祈り、食事、歓喜、信仰、希望の他に、あるいは、信仰の伝播すなわち帰依の共同性の拡大のためのかの唯一の活動の他に、客体性の膨大な領野が依然として残っている。