柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

女主君の祭祀

意外に、阿蘇山と高千穂は近くにあり、共に九州の南部というよりやや北部にある。桜島とゴッチャになっていた 阿蘇山 - Google マップ https://maps.google.co.jp/maps?q=%E9%98%BF%E8%98%87%E5%B1%B1&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla%3Aja%3Aofficial&hl=ja&client=firefox-a&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
2012年11月6日 - 12:16

やはり天孫降臨の地として有名な高千穂峰は九州南部だった。つまり熊襲がいたと考えられる阿蘇山から南に離れている。宮崎北部の高千穂であれば、かつて考えた研究者もいたように、宇佐に始まる神武東征のスタート地点として考え易いと思った。
2012年11月7日 - 14:46

槵触(くしふる)山は宮崎北部の高千穂にあるのか。天孫降臨の地は、古事記で「久士布流多気(くじふるたけ)」、日本書紀一書では「槵触之峯(くじふるのたけ)」で、日本書紀本文では「日向の襲の高千穗峯」となっていて、やはり宮崎北部と思える。後に降臨の地の高千穂が宮崎南部とされたのか
2012年11月8日 - 0:35


神武天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は、兄弟や皇子を集めて「天孫降臨以来、一百七十九萬二千四百七十餘歲が経ったが、未だに西辺にあり、全土を王化していない。
東に美しい土地があるという、青い山が四周にあり、その地には天から饒速日命が下っているという。そこは六合の中なれば、大業を広げて、天下を治めるにふさわしい土地であろう。よって、この地を都とすべきだ」と宣言した。
太歳甲寅年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。
筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。乙卯年3月に吉備国に入り、高島宮の行宮をつくって3年又は8年滞在して船と兵糧を蓄えた。船団を出して速吸之門に来た時、国津神の珍彦、後の椎根津彦を水先案内とした。
戊午年の2月、浪速国に至る。3月、河内国に入って、4月に龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて生駒山を経て中州へ入ろうとした。
草香津まで退き、盾を並べて雄叫びをあげて士気を鼓舞した。この地を盾津と名付けた。
5月、磐余彦は船を出し、山城水門で五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国竃山で死去した。
名草戸畔という女賊を誅して、熊野に経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。陸でも海でも進軍が阻まれることを憤慨した兄の稲飯命三毛入野命が入水した。磐余彦は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔女賊を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。
八咫烏に案内されて、莵田の地に入った。
翌己未年2月、磐余彦は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討った。
これによって、磐余彦は中州を平定した。3月、畝傍山の東南の橿原の地を都と定める。
辛酉の歳(神武天皇元年・紀元前660年)の正月、磐余彦は橿原宮践祚され、始馭天下之天皇と称した。52歳であった。


槵触神社 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8F%E3%81%97%E8%A7%A6%E7%A5%9E%E7%A4%BE
槵触山は日本神話の天孫降臨の行われた聖蹟と伝え、『日本書紀』神代巻下の天孫降臨段第1の一書に見える「高千穂の槵触之峯(くじふるのたけ)」や、第2の一書の「槵日高千穂之峯(くしひのたかちほのたけ)」、『古事記』の「筑紫の日向の高千穂之久士布流多気(くじふるたけ)」、『日向国風土記逸文(『釈日本紀』所引)の「高千穂の二上の峯」に比定され、古来霧島山とともに天孫降臨の有力な比定地とされ、霧島神社と並び称された。また、当神社が国史に見える「高智保神(高智保皇神)」であるとすれば神階の授与が行われたことになるが、『延喜式神名帳』への記載は見ないままとなったことになる。


ネリー・ナウマン神道民族宗教――日本の宗教の歴史的展開」
世界宗教史8』(エリアーデ原案、ちくま学芸文庫

おそらく、伊勢における天皇の祖先の女主君の祭祀は、天武天皇のもとで初めて詳細に形成されたと思われる。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E5%AE%AE
日本書紀』によれば、天照大御神は宮中に祀られていたが、崇神天皇6年(前92年)、笠縫邑に移し豊鍬入姫命に祀らせた。垂仁天皇25年(前5年)、倭姫命が後を継ぎ、御杖代として天照大御神を祀るための土地を求めて各地を巡った。この経路は『日本書紀』にあまり記述がないが、鎌倉時代初期成立と考えられる『倭姫命世記』には詳述されており、その途中に一時的に鎮座した場所は元伊勢と呼ばれる。垂仁天皇26年(前4年)、伊勢国にたどり着いたとき、「この国に留まりたい」という天照大御神の神託があり、倭姫命五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称したのが皇大神宮の始まりである。


天皇系図 神代