柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

今日の書評は封建的/アジア的の議論に関連していましたが

ホッブズリヴァイアサン』(水田洋訳、岩波文庫


すなわち、人々は、研究とすぐれた理解力をもたずには、おおくの者のひとつの行為と、一群の大衆(ワン・マルティチュード)のおおくの行為とを、区別しえないのである。たとえば、カティリーナCatilineをころすときの、ローマ元老院の全員のひとつの行為と、カイサルをころすときの、多数の元老院議員のおおくの行為とを、区別しえない。したがって、おそらくひとりの説得にみちびかれた、一群の人々(ア・マルティチュード)のおおくの行為であるものを、国民の行為action of the peopleとかんがえるようになるのである。


また、合議体はそれ自身が多数者(マルティチュード)であるために、秘密に忠告をうけとることができる、時も所もないのである。