柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

感性と悟性

sasaki_makoto2008-01-27

以前、柄谷行人福田和也の対談を見た日は
昼の高円寺で感性、夜の新橋で悟性が刺激されました。


カントは世界共和国、
柄谷行人は明治=昭和並行説を
積極的に語った訳ではないようですね。


大澤真幸ナショナリズムの由来』(講談社

 この美学的な認識とナショナリズムとの関係について、柄谷行人は、すこぶる興味深いことを述べている(柄谷「帝国とネーション 序説」『ネーションと美学』[2004])。カントが感性(感じること)と悟性(考えること)とを厳しく区別したことはよく知られているが、柄谷は、カントが、感性と悟性の両方の性格を併せ持っているように見える、美学的趣味判断についてどのように論じたか、にまず注目している。カントは、趣味判断には、次のようなアンチノミー(二律背反)が伴う、としている。すなわち、(1)「趣味判断は、概念にもとづくものではない」という命題と、その否定(2)「趣味判断は概念にもとづくもではある」という命題とが、ともに成り立つのだ。(1)は、趣味判断は、論証によってその妥当性が決定されるものではない、ということである。だが、他方で、われわれは、趣味判断に関しても、論争を挑み、他人に同意を求めたりもする。つまり、趣味判断に関しても、妥当性を要求するのだ。これが(2)の意味である。カントは、感性と悟性を区分しながら、同時に、両者が総合されうる可能性があるとし、両者を媒介する能力を「想像力(構想力)」と呼んだ。が、しかし、――ここが肝心なところだが――カントは、その総合の能力を、それ自体として積極的に提示できるとは考えず、ここに見たようなアンチノミーの形式で、間接的・消極的に示唆しうるのみであるとしたのである。ところが、フィヒテシェリングなどのロマン派の哲学者たちは、感性と悟性(理性)を総合する能力を直接に、積極的に取り出しうる、と考えるようになった。たとえばシェリングは、直感的知性が、感性と悟性の二元性を越え、両者を総合する、とした。ここで重要なことは、フィヒテやヘルダーのようなロマン派の哲学者は、ナショナリズムを基礎づける理論家だった、ということである。それに対して、カントは、よく知られているように、普遍主義的なコスモポリタニズムを主張した。