浜崎りおと午前1時まで
デリダ、ボッラドリ「自己免疫:現実的自殺と象徴的自殺」
『テロルの時代と哲学の使命』(岩波書店)
デリダ ベンヤミンは、いかに国家が自身のために、まさしく脅威を通して暴力の独占を我がものにする傾向を持つのかについて語っています(「暴力批判論」)。
デリダ カントはその短い論文『永遠平和のために』のなかで、「世界共和国」(Weltrepublik)の考えはおそらくあきらめなければならないが、コスモポリティックな法という考え、すなわち「大それた誇大な観念などではいささかもない」「世界市民法という理念」をあきらめてはならない理由を説明しています。
デリダ 統制的理念についてこんなふうに言えるかどうかわかりませんが、それ以上に良い手がないのなら、統制的理念はおそらく究極の留保です。こうした頼みの綱はアリバイになる恐れもありますが、統制的理念はある種の尊厳を失いません。
それは、まず何よりも、厳密なカントのコンテクストを離れてこの統制的理念という観念が広く使われている、そのとてもいい加減なあり方に関してです。この場合、統制的理念は可能事の秩序のなかにとどめられ、つまりひとつの可能的な理念にとどめられます。
したがって、かの不‐可能事は統制的理念ないし理想ではありません。
最後に、第三に、仮に今度はカントが理念の統制的使用(構成的使用とは対立する)に与えた厳密な意味に立ち返ったとして、この主題について何かを言うために、とりわけその用語を自分のものにするために、カント的な建築術と批判の全体に賛成しなくてはならないことになるでしょう。
ここでこうしたことを扱うことはできませんが、この統制的理念の使用をいくらかでも厳密な仕方で自分のものにすることに私がどれほど慎重であるか、あなたはお分かりでしょう。私たちは世界や世界規模の動きについて多くを語ってきたのですから、世界の理念そのものがカントにとって統制的理念にとどまることを忘れないようにしましょう。世界という統制的理念は、他のふたつの統制的理念――それ自体はいわば主権のふたつの形態です――すなわち、魂ないし思考する自然としての「自己自身」(Ich selbst)と神というふたつの統制的理念のあいだにある第二の統制的理念なのです。
以上が、理性やある種の「理性の関心」を放棄しないけれども、やはり〈来たるべき〉や来たるべきデモクラシーを語るとき、私が「統制的理念」という表現の使用を躊躇してしまう理由のほんのいくつかです。
ソ連がアフガニスタン侵攻をしていた時、アメリカは
アフガニスタンの戦力を支援・訓練したが、
それらが結果的に9・11の実行者となった事が
身体の免疫の問題と同じだという事らしい。
昨日のボウリングは99/79で19位でした。