柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ルソー・カント・ヘーゲルにおける一般的意志の差異について

ヘーゲル精神現象学』(樫山欽四郎訳、河出書房新社

 全実在はもっぱら精神的なものである。この意識にとり、世界は直ちに自らの意志であり、この意志は一般的意志(ルソー)である。

 否定は、人倫的世界が没落して行った、彼岸に在る一般的必然性(運命)ではなく、また、個々の偶然な自己の所有でもなければ、分裂した意識(三六九)が依存していると気づいた、気まぐれな所有者の個々の偶然でもない。そうではなく、その否定は一般的意志(カント)である。


中島一夫 http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20100219/p1


病院に行って、「ツイン・ピークス」は
若者、恋愛、セックス、老人、病気、介護、
都会と地方、ネイティブと移民者、
宗教、金儲け、狂気、犯罪、つまり
人間についての全てを描いていたのだと改めて思った。


崖の上のポニョ」の前半を見る。
(順不同に見るのは前掲、ドラマ「ツイン・ピークス」以来)

後半の水彩画とセル画による表現に比べ
セル画のみの表現が多い。

ポニョの本当の名前はブリュンヒルデ
アーデルハイドがハイジ、トロルがトトロと
呼ばれるのと同じかと思ったら
ブリュンヒルデは「ワルキューレの騎行」に出てくるらしい。
前に指摘したポニョが走る場面で使われる「ワルキューレ」は
少し音階を下げているのかオリジナルと違って聴こえる。

私は元気(となりのトトロ
テレビがちらつく(魔女の宅急便

という、カーチェイス(やはりカリオストロとほとんど同じ)
以外にも、宮崎駿の過去の作品の反復がある。

宇多田ヒカルFlavor Of Life
柄谷行人の「NAM原理」「世界共和国へ」のように
自分の手法を集約しているのだ。


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広開土王碑

 そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅新羅を破り、臣民となしてしまった。


朝鮮半島北部の古代国家・高句麗を描いた韓国ドラマ「太王四神記
(ロゴの5文字は広開土王碑から採られたという)は
中国、北朝鮮の他、日本を意識して製作されたと思う。
上記391年についてはどう描かれたのだろう。


三国史記」で広開土王の即位は392年とされる。「三国史記」のこの時期の記述に倭は出てこないようだ。


三国史記 巻第十八 高句麗本紀第六

第一九代 広開土王(在位三九二―四一三)

 広開土王は、諱名を談徳といい、故国壌王の子である。生れながらにして、雄健・偉大で他とかけはなれた優れた志をもっていた。故国壌王三年(三八六)に太子となり、九年(三九二)に王が薨去したので、太子が王位についた。
 秋七月、〔王は〕南進して百済の十城を攻略した。
 九月、〔王は〕北進して契丹を討伐し、男女五百人を捕虜とし、本国(高句麗)から連れさられた民を招きさとして、一万人を連れて帰った。
 冬十月、〔王は〕百済の関彌城を攻めおとした。その城の四方は絶壁で、海水にとり囲まれていたが、王は軍隊を七道にわけ、二十日間攻撃して、ついに陥落させた。


広開土王碑の391年の記述について
日本書紀」では応神天皇三年(272年)が
対応すると考えられている。


日本書紀 巻第十 応神天皇

 この年百済の辰斯王が位につき、貴国(日本)の天皇に対して礼を失することをした。そこで紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を遣わして、その礼に背くことを責めさせた。それで百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは阿花を立てて王として帰ってきた。


三国史記」に上記に対応する記事は無い。「書紀」に書かれた理由は何だろう。
「書紀」ではこの時期の百済は日本の属国という扱いなので
百済で王が即位する事が無礼だとしているのだろうか。


三国史記 巻第二十五 百済本紀第三

第一六代 辰斯王(在位三八五―三九二)

 (392年)秋七月、高句麗の談徳(広開土王)は、四方の軍隊を率いて、〔わが国の〕北部辺境に侵攻して来、石硯城など十余城を陥れた。王は談徳が用兵に秀れていることを聞いているので、城を出て戦うことができなかった。〔そのため、〕漢水(漢江)の北の諸部落は、多く〔高句麗に〕奪われた。
 冬十月、高句麗〔軍〕は関彌城を攻めおとした。
 王は狗原で田猟していたが、十日してもかえってこなかった。
 十一月、王が狗原の行宮で薨去した。

第一七代 阿莘王(在位三九二―四〇五)

 阿莘王(分注。阿芳ともいう)は、枕流王の嫡男である。さきに〔阿莘王が〕漢城の別宮で生れたとき、神光が夜に照りはえた。壮年になると、いきごみが盛んで、豪勇・英邁で、鷹狩りや騎馬を好んだ。〔近仇首〕王が薨去したとき、〔阿莘王は〕幼少であったので、叔父の辰斯〔王〕が、〔王〕位を継いだ。〔辰斯王は在位〕八年(三九二)に薨去したので、〔阿莘王は王〕位に即いた。

 六年(三九七)春五月、王は倭国と好(国交)を結び、太子の腆支を人質とした。


上記397年の記述は、日本書紀の応神八年(277年)に対応する。
百済の太子・腆支(直支)が397〜405年に人質として倭に滞在し、
倭が百済の阿莘(阿花)から腆支(直支)への王位継承に関わったのは確かなようだ。


日本書紀 巻第十 応神天皇

 八年(227年)春三月、百済人が来朝した。――百済記に述べているのは、阿花王が立って貴国(日本)に無礼をした。それでわが枕弥多礼・峴南・支侵・谷那・東韓の地を奪われた。このため王子直支を天朝に遣わして、先王の好を修交した。

 十六年(235年)春二月、王仁がきた。太子菟道稚郎子はこれを師とされ、諸々の典籍を学ばれた。すべてによく通達していた。王仁は書首らの先祖である。この年百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王(阿花王の長子)をよんで語っていわれた。「あなたは国に帰って位につきなさい」と。よって東韓の地を賜わり遣わされた。東韓とは、甘羅城・高難城・爾林城がこれである。


三国史記 巻第二十五 百済本紀第三

第一八代 腆支王(在位四〇五―四二〇)

 腆支王(分注。直支ともいう)は、『梁書』に名は映〔とある〕。阿莘〔王〕の嫡男で、阿莘〔王〕在位第三年(三九四)に太子となり、六年(三九七)倭国に人質としていった。十四年(四〇五)に王が薨去すると、仲弟の訓解が政治をとって、太子の帰国を待っていた。末弟の礫礼が訓解を殺して、かってに王となった。腆支は倭〔国〕にいて〔父の阿莘王の〕訃報を聞き、大声をあげて泣き、帰国を要請した。倭王は百人の兵士を護衛につけて送り国境まできた。〔このとき、〕漢城の人の解忠が来て、
  大王がなくなると、王弟の礫礼が兄を殺し、自立しました。どうか、太子は軽々しく国に入らないでください。
と告げた。腆支〔王〕は倭人を留めて自衛し、海中の島にたてこもって、〔時期を〕待った。国人が礫礼を殺し、腆支〔王〕を迎え、〔王〕位に即けた。
 〔王〕妃の八須(はっしゅ)夫人は、子の久尓辛(くにしん)を生んだ。


ここで「倭王は百人の兵士を護衛につけて送り国境まできた」とある。
倭と百済に国境があるという事だが、海を挟むという記述がなく
倭は朝鮮半島南部(を含む)地域に存在する事を意味するのではないかと思った。
また上記の八須が倭の人、久尓辛が倭で生まれたという可能性はないだろうか。


日本書紀によれば、応神天皇
仲哀九年(200年) 筑紫・蚊田で生まれる。
神功皇后三年(203年) 皇太子となる。大和・磐余に若桜宮が造られる。
とある。


1854年5月25日 ペリー、下田条約
1863年 坂本龍馬、下田