柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

幻想的共同体

山本耕一「協働・役割・国家」

 ――もっとも、マルクス・エンゲルスは、正確には国家を幻想的共同体として捉えるのであるが、ここでは、幻想的であるといわれるゆえんはひとまず措いておくこととし、ともあれ右で述べたような性格を有する協働聯関が、ひとつの共同体として、そしてさらには国家として把握し得るものであることを確認しておきたい。


ドイツ・イデオロギー』に、国家は幻想的共同体であるいう記述があるが
これもカントが語る国家の理想を批判しているのかもしれない。

Gemeinschaft(ゲマインシャフト、共同体)のGemeinは
commonの事のようだ。


willとvolunteerは語源が一緒らしい。
will [古英語wyllan. ラテン語velle(望む)と同系. △VOLITION]
voluntary 〔[語源] VOL「意志」: volition, voluntary, volunteer, voluptuous; benevolent, malevolent〕
[類語]
will ある目的や決断に向けての確固として揺るぎない意志, 目的達成のための意志力・決意を含む.
volition 決定や選択を志向する心の動き. きびしい決意を意味することはまれ:I joined the army from my own volition. 自分からその気になって入隊した.


tsasak @sasaki_makoto おそらく、twitterと一般意志は遠いじゃないか、と思います。なぜかというと、一般意志が生成するには条件があって、「deliberationなし(熟議なし)で」という条件を満たす必要があるからです。twitterではある程度、議論が起こりますよね?

tsasak @sasaki_makoto ただし、素朴な市場のイメージとはちょっとズレていて、数学的なアルゴリズムに近い話をしていると思います。それこそ、単なる計算機に近いというか。

tsasak @sasaki_makoto 東・ルソー的「一般意志」です。個々の特殊意志が正しくバラけて相殺しあうゆえ、全体意志will of allが一般意志general willになる、という話です。おっしゃるとおり、マーケティング的な知にかぎりなく近いと思います。

tsasak @sasaki_makoto そのドラマの話はよく知らないのですが、「一般意志」「立法者」の問題は、「主権」の基礎づけ問題です。「主権者」とは、(法外な)「全能者」のこと。その「全能者」を「集合的な(共同体に刻印された)欲望」とみなす点で非常にスミス的だ、といいたかったわけです。

tsasak @sasaki_makoto あの議論での「一般意志」は、主権sovereignty(≒集合的な欲望)をいかに「効率よく」集約するか、の話だと私は解釈しています。ルソーの社会契約論も、よく読むとスミス的な(共感の生み出す)社会秩序とすごく接近していると思います。


hazuma 「自己矛盾を抱えた命題を主張する」のと、「言論の原理と行動の原理をともに命題化したときに矛盾のように見える」のはまったく別のこと。言語行為論とかクワインとかデイヴィッドソンとか読破してから出直してきてくれ!


舛添要一 http://www.masuzoe.gr.jp/
谷垣禎一 http://twitter.com/Tanigaki_S


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)
第四九章 生産過程の分析のために
   五三 プルードンは、こんなことのわからない自分の無能を次のようなばかげた言い方で表明している。
 だが、ウジェーヌ・フォルカード氏はどのようにしてプルードンのまちがいを正しているか? 「仮りにプルードンの異論が正しいとすれば、それは資本の利潤に的中するだけではなく、そのうえに産業の生存可能性をさえ否定することになるだろう。
 ……プルードンは国民的資本が絶えず成長することを忘れている。」(『ルヴュ・デ・ドゥ・モンド』、一八四八年、第二四巻、九九八、九九九ページ。)
 第二に、彼はプルードンがただ局限された観点のもとでしか表明していない困難を正しく一般化している。
 だから、資本家も、プルードンの理屈によれば、自分の利潤で商品を買いもどすことはできないことになるであろう。
さらにまた、可変資本と収入との交換が行なわれる。
最後に、不変資本を形成する生産物のうちの一部分は、不変資本の生産者たち自身によって現物でかまたは交換をつうじて補塡される。


浜崎あゆみ http://twitter.com/ayu_19980408


山本耕一「協働・役割・国家」

 なお、「再分配」の問題に関しては、古代ギリシアの経済に即してこれを分析したK・ポランニー『人間の経済』(玉野井芳郎・中野忠訳、岩波書店、一九八〇年)――とりわけその第十二章――を参照されたい。

 既に幾度となく言及してきたが、協働の体系の維持をその本質とする国家、〈協働聯関の維持〉というこの規定が抽象的なままである限りは、これをイロクォイ族の権威と共有する国家は、諸個人が分業的協働を営むという事実にその存在の根拠を有している。

 だが、第二節で指摘した役割の固定化、そしてそのことによる地位の”自存化”を勘案するならば、国家権力は、ここでもまたイロクォイの氏族の首長とは明確に区別された相でわれわれの前に立ち現われることになるわけである。

このゆえに、国家の止揚は、たんに国家を倫理的基準によって裁断したりすることとは無縁であるし、国家という観念あるいは表象を頭から叩き出せば能事足れりというものでもない。


ドイツ・イデオロギー』三四ページ

労働が配分されはじめると、各人は自分が押しつけられる一定の排他的な活動領域をもつようになり、それから脱け出せなくなる。彼は、狩人、漁夫または牧夫または批判的批判家のどれかでありつづけざるを得ない。


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)
第五〇章 競争の外観
第五一章 分配関係と生産関係
第五二章 諸階級
中間階層や過渡的階層がこの国でも(農村では都市とは比べものにならないほどわずかだとはいえ)到る所で限定規定を紛らわしくしている。
エンゲルス 『資本論』第三部への補遺
一 価値法則と利潤率
経済学者たちが価値というときには、彼らは、実際に交換で決定される価値のことを言っているのだ。
 「なぜならば、価値とはある商品が他のある商品と交換される割合にほかならないのだから、総価値という観念そのものがすでに一つの背理であり、一つの無意味であり……一つの形容矛盾であるからである。」
交換が二つの商品を等値することができるのは、ただ、それらに含まれている同じ種類で同じ大きさの一要素、すなわちそれらに含まれている同じ大きさの労働量によってのみである、と。
二 証券取引所