柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

民主主義とくじ引き

ジャック・ランシエール『民主主義への憎悪』(インスクリプト

それは、「神に愛される」権威という資格、すなわち偶然の神による選択、くじ引きであり、これによって数多くの平等の民が地位の分配を決める民主的手続きである。


miyadai 丸山は、共同体(血縁的・階級的・地縁的バックグラウンド)を前提にした市場競争や市民社会というものの不可欠性を意識していないか、戦略的に語りません。RT @honey_sato29: サンデル教授が19世紀的自由主義リバタリアニズムとほぼ言えると言っていたの


neko800 ランシエールの言うくじ引きと柄谷の言うそれは根本的に違う。柄谷のそれは単に偶然性を導入しただけで、くじ引きで選ばれるメンバーはやはり選民されているが、ランシエールはピンからキリまで選ばれるという点ではるかに過激。この二つを混同してはならない。


松葉祥一「デモクラシーとは何か」
ランシエール『民主主義への憎悪』(インスクリプト

そのためにデモやストが果たす役割は大きい。
法や政策に対してデモやストで意思表示をすることこそ「民主主義国家のあかし」なのである。
米国では「不法移民への規制強化」に反対してヒスパニック系市民を中心とするデモが全国で続き、多くの中高生が授業をボイコットしている。
 ただしランシエールは、デモやストだけがデモクラシーの現れだと述べているわけではない。
またデモやストが、たんに待遇改善を目的とするものである場合には、デモクラシーとは無関係であることもある。


ヘーゲル『法の哲学』(藤野渉・赤澤正敏訳、中央公論社
§二九七
 政府構成員と官吏は、国民大衆の教養ある知性と合法的な意識とが所属する中間身分(2)の主要部分をなすものである。

(2) これは当時の新しい用語であって、アリストテレス政治学に通じていた人々にあっては、アルストテレスのいうメソイ(中間の人々)の意味で用いられた。アリストテレスはこれを経済的な中間段階と定義し(『政治学』第四巻第一一章)、国家はメソイによって構成される場合が最善であるとしたが、ヘーゲルは経済的な面をまったく無視して、中間身分という用語を君主と民衆との中間に位する教養ある身分としての官吏身分に転用した(ローゼンツヴァイクヘーゲルと国家』第二巻一五一ページ参照)。


アリストテレス政治学』(牛田徳子訳、京都大学学術出版会)
第四巻 王制以外の諸国制とそれらの多様性
第十一章 現実の国家における最善の国制
一つは非常に富裕な人びと、他は非常に貧しい人びと、第三はそれらの中間の人びとである。


マルクスヘーゲル法哲学の批判から』
ヘーゲル国法論(第一六二節―第三一三節)の批判(九二)]
マルクスエンゲルス全集 第1巻』(平林康之・土屋保男訳、大月書店)

官吏は「中間身分の主要な部分」をなしている。
「中間身分」は「教養」の身分である。
 第二九七節において、「政府の構成員ならびに官吏が、中間身分の主要部分」を構成するかぎり、一つの同一性が定立されている。このような「中間身分」を、ヘーゲルは「合法性と知性とにかんして」国家の「基柱」として賛美している(引用した節への補遺)。
  「このような中間身分が形成されるということは、国家の主要な関心事である。しかしこのことは、われわれがみてきた組織と同じような組織においてだけ、すなわち相対的に独立している特殊な集団の権利を認められた集団によってその恣意が無力化されるような官界を通してだけ、可能である。」
 たしかにこのような組織においてのみ人民は、一つの身分、中間身分としてあらわれることができるが、しかしはたしてそれは、特権の均衡によって自己を維持している組織であろうか? 行政権は展開するのに最も困難なものである。それは、立法権よりもなおいっそう高い程度において全人民に属しているのである。
 ヘーゲルは、もっとあとで(第三〇八節への注釈)、彼が「職務の慣れ」として、また「あるかぎられた領域の眼界」としてそれを言いあらわしている場合に、官僚制の本来の精神をはっきりと述べている。