柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

スピノザ『神学・政治論』

スピノザ『神学・政治論 下』(畠中尚志訳、岩波文庫

 ヘブライ人たちは、エジプト脱出後はもはや他のいかなる民族の法[jura]にも拘束されず、……かくして自然状態に立ち帰ったのであり、彼ら一同がもっとも信頼するモーセの助言にしたがって、彼らの権利を死すべきもの[=人間]にではなく神にのみ委譲すべく決意したのだった。

スピノザ『神学・政治論』

国家(Respublica)の目的は畢竟自由に存する。


マルクス

人間的本質は、その現実性においては、社会的諸関係の総体である。


ルソー「ジュネーヴ草稿」『社会契約論/ジュネーヴ草稿』(中山元訳、光文社古典新訳文庫

人間の構成においては、魂が身体にどのように働きかけるかという問題は、哲学の難問であるが、国家の構成においては、一般意志が公的な力にどのように働きかけるかという問題は、政治学の難問である。


カント

汝の行為の格率が普遍的法則となるかのように行為せよ。


バリバール『スピノザと政治』(水声社

 スピノザは『神学・政治論』のなかで、諸州連合(「自由な共和国」)の共和政体のことを民主制(または歴史的にみて、民主制にもっとも近い体制)として呈示し、しかもそれを「もっとも自然的な統治形態」として定義した。

このような(自由と平等の)同一性にもとづいて、それらの文書は、「無限の」実践的市民権とも呼ぶことのできるような、市民の新しい定義を基礎づけるのである(これは、アリストテレス流の政治的動物およびローマ市民といったものに属する局地的かつ排他的な市民権と対照的なものであるばかりか、ストア派的な世界国家に属する道徳的市民権および、アウグスティヌス的な神の国に属する超越的市民権とも対照的なものである)。


バリバール「無限の矛盾」安川慶治訳、『批評空間』第二期第一二号、太田出版、一九九七年


ヘーゲル精神現象学 下』(樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー

――断言が真であるかどうかと問うときには、内心の意図が表面に出された意図とちがうということが、すなわち、個々の自己の意欲が、義務から、一般的で純粋な意識の意志から、離れうるということが、前提されているのであろう。

とはいえ、一般的意識と個別的な自己をかく区別することこそは、すでに廃棄されたことなのである。

すなわち、自らを、他人が承認するような、他人と等しいような、一般的知および意欲であると呼ぶことになる。


フレドリック・ジェイムソンヘーゲル変奏 『精神の現象学』をめぐる11章』(長原豊訳、青土社

すなわち、まさに「歴史あるいは理性の狡知」という考え方が、ナポレオンが歴史の展開の掌で踊る一齣あるいは手段にすぎなかったことを曝くことで、個人の偉人に低い評価しか与えなかったことを根拠に、「世界史的個人」というヘーゲルの概念がコジェーヴの神人同形論を〔むしろ〕補強したのだという解釈は、成り立たないのです。

 フランス革命を論じた部分は『精神の現象学』にあってももっとも高い称讃を受けている部分です。この部分はルソーの〈一般意志〉の絶対的否定性を理論化している部分でもあるわけですが、そこでは絶対的主体と個別の自己の両者をつなぐ中間項が、両者の関係だけが「媒介されない否定」という関係でありうるように、まったく与えられてはいません。

ルソーの〈一般意志〉はもう一つのもっと絶望的で創意に充ちた試みとして立っていますが、それは、このいわゆる「複合語」がいかなる類いの人格化あるいは擬人化でもないとはいえ、多数性、複数性、あるいは満場一致さえも排除するような――言い換えれば、量的なことをまったく回避するような――やり方で社会的なことの集合性をどうにか成立させることで、これらの範疇を取り戻す試みでした。

〈一般意志〉は、一箇の概念というよりも、むしろ一箇の出来事――この軸を為す革命それ自体という出来事――看做されることで、抽象性、しかもその意味では致命的な抽象性へ頽れることが避けられないからです。(ナポレオン的な普遍的〔国家−〕状態のコジェーヴによる〔ヘーゲルのテクストへの〕挿入というよりも、むしろ)ヘーゲルのテクストにおける字句に素直に順えば、集合的なことの失敗、〈一般意志〉とそれによる革命の失敗は、カント以降、今日では私的道徳性と言う視点から再組織化されている個人的なこととその主体性の復古にも似た何ごとかをもたらしたのです。

〈一般意志〉も範疇的命法も、もしそれが達成されていれば歴史の終焉そのもの(あるいは、マルクスの定式に拠れば、前史の終焉!)という結果をもたらしたに違いないであろう個体的−主体的なものと普遍的−集合的なものとの若いには、達しなかったのです。しかし、ここでの失敗とは、(〈一般意志〉の革命にも似た、またルソーによる概念化あるいは理論化に先立つ)カント的な道徳性を一箇の歴史的出来事としてのみ捉えることを意味しています。