柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ランシエール、ドゥルーズ

ジャック・ランシエール『イメージの運命』(堀潤之訳、平凡社

 そして、デュシャンによる衰えることのない小便器が、スティーグリッツがその上から写真を撮った台座を介して、再び務めを果します。

http://d.hatena.ne.jp/tricheur/20100318/


ランシエールは、『資本論を読む(上)』(ちくま学芸文庫)の「『一八四四年の草稿』から『資本論』までの批判の概念と経済学批判」でカントからマルクスを読むというのが柄谷行人トランスクリティーク的で面白かった。 http://bit.ly/xKh1ar


宇野邦一・堀千晶・芳川泰久編『ドゥルーズ 千の文学』 せりか書房

芳川泰久宇野邦一・堀千晶「ドゥルーズ 千の文学」

 宇野 ドゥルーズの集団の哲学は、戦争機械に対応する遊牧民の組織を、国家装置と対立させている。確かにアナーキズムにも見えますが、戦争機械に関しては、いろんなタイプのほとんど自殺的、テロリスト的な集団、そしてあらゆるタイプのファシズムとか、そういう陰画もたくさん分析しているわけです。

 結社というのは戦争をやらないとしても、ほとんど戦争機械なわけです。戦争機械の目的は戦争じゃないとはっきり言っているわけです。

 要するに戦争機械、分子的集団に注目せよ、しかし決して油断するな、と言い続けていたと思います。

豊島重之「カフカ ホロビならぬフルビの戦意」

 なぜなら遊牧民だけが戦争機械なのではなく、都市で/を喰うことの違法、都市を/で書くことの非合法、都市を砂漠や草原に豹変させる亜種の動物として書くこと/喰うこと自体が「プラハのドイツ語」という戦争機械なのだ。

大宮勘一郎「クライスト 「群れ」の民主政」

 あらゆる身分の者たちが救出のために、域内の騒擾や秩序喪失を嫌う政府の意に反しても自発的に、とはつまり(戦争機械がそうであるように)国家に対して外在的に押し寄せる。

鈴木創士「ジュネ 墓の彼方の生」

 ドゥルーズは自宅の窓からエンペドクレスのように身を投げ、ジュネはモロッコ・ララシュの寂しいスペイン人墓地に眠っている。


ジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』(法政大学出版局

 つまりキューブリックにおいては世界そのものが頭脳であり、『博士の異常な愛情』の輝く円形の大テーブル、『二〇〇一年宇宙の旅』の巨大なコンピュータ、『シャイニング』のオーヴァールック・ホテルのように、頭脳と世界との同一性が成立している。


何度もいうが、ドゥルーズは『シネマ』をキューブリック=頭脳/ゴダール=肉体という対立を動機にして書いたと思う。日本の解説者はなぜかゴダール、フランス映画しか語らない。


ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー 資本主義と分裂症』
(宇野邦ー・小沢秋広・田中敏彦・豊崎光一・宮林寛・守中高明訳、河出書房新社

 少女は器官なき身体を駆けめぐる。少女は抽象線、あるいは逃走線なのだ。


ドゥルーズ『意味の論理学 下』(小泉義之訳、河出文庫

 われわれの言葉は本能までしか達しないが、別の審級、すなわち〈死の本能〉からこそ、本能はその意味を、その無‐意味を、その結合を受けとるのである。


ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 下』(宇野邦一訳、河出文庫

 器官なき身体は死のモデルである。


ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳、河出書房新社

 器官なき身体の上の種々の離接点は、欲望する諸機械を中心としてその周囲にいくつかの収斂する円環を形成している。


ポール・ド・マン

 ハイデガーはこれまでの誰よりもヘルダーリンに接近した。しかし、ヘルダーリンは、ハイデガーが彼に言わしめたこととはまさに正反対のことを言っているのだ。