柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

私自身であろうとする衝動

柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店

それゆえロマン主義は両義的である。それはノスタルジックな復古主義という側面と、資本=国家の批判という側面を同時に持ったのである。一般的には前者も面が支配的であるが、たとえば、イギリスのロマン派では後者の面が強く、彼らの多くが社会主義者であったことには注目に値する。


倉数茂『私自身であろうとする衝動 関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ』(以文社

 柄谷行人は、西洋史上、啓蒙主義への反発として登場したロマン主義は、近代化によって解体されていく社会のありかた(互酬性)の「抑圧されたものの回帰」(フロイト)なのだという見方を提示している*17。しかもそこで回帰するのは単純に前近代的な農業共同体ではなく、より古代的で本来的な社会関係のありようなのである*18。

本書の芸術家たちを、柄谷のいうロマン主義左派とみなしてもよい。

*17 柄谷行人『世界史の構造』第三部第三章、岩波書店、二〇一〇年。
*18 柄谷の理論では、農村共同体というのは国家のサブシステムであり、内部での互助的な仕組みは、国家による支配とセットになっている。一方、より古代的な互酬関係は、狩猟民・氏族制に起源を持ち、国家から自立的である。前掲書、第一部第一章参照。

今和次郎(一八八八―一九七三) 古民家研究から出発して関東大震災を契機に吉田謙吉と「考現学」を創案。日常生活のあらゆる事物、行為を記録することを目指す。「考現学」の語は考古学から。家政、服装、住宅改善などにも関心を広げる。早稲田大学理工学部教授。

 一九一五年、佐野(利器)は「震度」という概念を導入することによって、地震の揺れを定量的に把握することを可能にし、世界に先駆けて耐震構造学を築くことに成功した。

憲法大尉・甘粕正彦無政府主義者大杉栄とその妻野枝、甥橘宗一を虐殺した甘粕事件、労働運動家・川合義虎ら一〇名が亀戸警察署で殺された亀戸事件、さらには「朝鮮人が襲ってくる」「井戸に毒を入れた」などの流言飛語に惑わされて、軍、自警団らが数千ともいわれる朝鮮人、中国人を惨殺するなど、社会の無秩序は、むしろ震災後数週間の時期に未曾有の陰りをもって浮上した。

*17 また、今和次郎の方法論は、やがて柳田國男との決裂をも招く。同じ個別事例の収集から始めるにせよ、柳田民俗学がその膨大なデータの集積から日本人の心性といった抽象的な「本質」へと遡行する傾きを持っているのに対し、今は、非中心的な変遷にしか興味を持たなかったからである。

 こうした事実をふまえて、渡辺(数靖)は保田(與重郎)の思想が他者(和辻哲郎、土田杏村、芥川龍之介谷川徹三小宮豊隆折口信夫)の思考の断片の「綴れ織り」であると指摘している。

近畿大学大学院で指導してくださった故後藤明生先生、柄谷行人先生、渡部直己先生は、学問のおもしろさと「書く」ことの厳しさを身をもって教えてくれた。


今和次郎いとうせいこう
帝都物語 1988年 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%83%BD%E7%89%A9%E8%AA%9E


浅田彰柄谷行人蓮實重彦野口武彦三浦雅士「大正時代の諸問題」
第一期『批評空間』第二号(一九九一年)『近代日本の批評』(講談社文芸文庫