柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

幻想か現実か

マルクスエンゲルス全集 第1巻』(大月書店)

マルクスヘーゲル国法論(第一六二節―第三一三節)の批判](平林康之・土屋保男訳)

 しかしそれは、政治的国家のそれ自身との(君主の意志との、さらには政治的国家の原理と市民社会の原理との)統一についての、また二つの対立する原理が結合されるだけでなく、両者の統一がその本性すなわち現存の根拠であるというような、実質的な原理としてのこの統一についての、定立された幻想である。

 さてこの幻想が、有効な幻想であるか、または意識的な自己欺瞞であるかは、国会の要素と君主的要素との関係の、現実の状況しだいなのである。国会と君主権とが事実上一致し調和するかぎり、その本質的な統一の幻想は、現実的な、したがって有効な幻想である。反対に、その幻想がそれが真理であることを実証しなければならない場合には、それは意識的な虚偽となり、笑い物になるのである。

 こうして統体性としての政治的国家もまた廃棄されるのである。

 そして実際にそれは、ヘーゲルによって展開された道徳が抽象的主観性の幻想的な存在であるように、法の抽象として、またそれとともに抽象的な人格の幻想的な法として展開されなければならない。ヘーゲルは、私法と道徳とを、このような抽象として展開しているが、しかし彼は、このことから、これらの抽象を自己の前提とする国家、人倫が、この幻想の社会(社会的生活)以外のなにものでもありえないことは結論しないで、逆にそれらはこの人倫的生活に従属する契機であると推論している。


マルクスヘーゲル法哲学批判 序説」(花田圭介訳)

 宗教は、人間存在が真の現実性をもたない場合におこる人間存在の空想的な実現である。

 宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸に対する抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である。
 民衆の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは、民衆の現実的幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてえがく幻想をすてろと要求することは、その幻想を必要とするような状態をすてろと要求することである。

 宗教は、人間が自分自身を中心に運動しないかぎり、そのあいだ人間のまわりをまわる幻想的な太陽であるのにすぎない。

 旧制度が現存の世界秩序として、やっと生まれかけてきた世界とたたかっていたあいだは、旧制度の側にあったのは世界史的誤謬であって、けっして個人的誤謬ではなかった。

 世界史の形態の最後の段階は、それの喜劇である。

 この思弁的法哲学は、すなわち、その現実性がたとえただラインのむこう岸にすぎないとしても、とにかく一つの彼岸的なものでしかないような、そうした近代国家の抽象的・幻想的な思考は、ただドイツでだけ可能であったのであるが、もしそうだとすれば同じように逆に、現実の人間を捨象するドイツ流の近代国家の思想像が可能であったのは、ただ、近代国家そのものが現実の人間を捨象しているためか、あるいは全体的人間を想像的な仕方でだけ満足させているためか、そのいずれかの理由によってであり、またそのかぎりにおいてである。

 どのようにして、ドイツは命がけの飛躍(salto mortale)によって自分自身の障壁をとびこえるだけでなしに、同時に近代諸国の障壁をも、すなわちドイツが実際には自分の現実の障壁からの解放として感じ求めざるをえない障壁をも、とびこえることができるだろうか?


マルクスユダヤ人問題によせて」(花田圭介訳)

 すなわち、現実の国籍には自分の妄想的な国籍を、現実の律法には自分の幻想的な律法を対立させ、自分は人類から区分される権利があると思い誤り、主義としての歴史の運動にすこしも関係しないで、人類の一般的な未来となんの共通のところもない未来を待ちこがれ、自分をユダヤ民族の一員と考え、しかもユダヤ民族を選ばれた民族と考える、というぐあいである。


上記の「宗教は、人間存在が真の現実性をもたない場合におこる人間存在の空想的な実現である」は
柄谷行人佐藤優氏が言う「人間は実現困難な理念を持たなければならない」と同じだろう。

「宗教は民衆の阿片である」という言葉は、宗教を批判しているのではなく
民衆が現実に幸福であれば宗教は必要ないということだ。

ヘーゲル法哲学批判 序説」、「ユダヤ人問題によせて」は
「独仏年誌」同号に掲載された。