柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ブリ=コラージュ

レヴィ=ストロース『神話論理IV−2 裸の人2』(みすず書房

外部からのあらゆる影響にいとも簡単に翻弄されるとともに、自分自身の移り気の犠牲にもなる哲学は、テツガクというより「テツ芸」のような代物に落ちぶれて、先人が築きあげた問題や方法や語彙を美しく切り売りしはじめるかもしれない。読者を誘惑し、その手を引いて悦楽を与えるためなら、古びているが尊敬に値する先人の遺産からいずれも奇抜な仕方で引きちぎってきた思想の切れ端を奇抜さにまかせて組みあわせながら、真理よりは虚栄への愛に属する思いがけない効果をそこから引き出してくるだろうし、そうしたたぐいの成功はもっぱら享楽と虚飾の次元にとどまる定めにしかないだろう。

哲学者は、あるときは人文科学をはずかしめ、またあるときは作家や芸術家と同じようにそれをわが物としながら、思いつくまま切り取ってきた断片をつかって絵画のコラージュにおとらず恣意的なコンポジションを仕立てあげようとするのだが、それさえ果たせば人文科学を熟考したり実践したりすることから免れる、とりわけ妥協をゆるさぬ真理探究の途上にあって人文科学のとる路線に従うことから免れると彼らは思いこむのだ。