柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ここにロードス島あり、ここにて跳べ

hic Rhodus, hic salta
「法螺吹」『イソップ寓話集』(中務哲郎訳、岩波文庫


宇野弘蔵『価値論の研究』

 マルクスの価値論を明らかにするには実は全体系を論じることにならざるを得ない。


廣松渉資本論の哲学』(平凡社ライブラリー)の冒頭から
対話形式が続き、小林よしのりのマンガを思い出した。
台詞と地の文について。
基本的に、小説は地の文と台詞で表現されるのに対し
マンガは登場人物の絵と台詞で表現される。
日本の言文一致の成立は二葉亭四迷の落語への関心による所が大きかったという。
例えば、

 昔、江戸の町の長屋に
 鉄っつぁんと八っつぁんという二人がおりまして
 会ってはとりとめのない話をしておりました。
 「お〜い、八っつぁん」
 「なんでえ、鉄っつぁん」

という落語の一節があったとする。
前半の地の文と後半の台詞の形式は現代の小説と同じである。
しかしこの表現方法は、古事記万葉集の詞書と歌から
引き継がれてきているとも言える。
地の文と台詞という形式は落語の他に物真似もそうだが
マンガ・コント・演劇・ドラマ・映画は基本的に台詞のみで進行する
(ナレーションや字幕という地の文が付加される事もある)。
小説は上記のようにマンガと違って地の文も台詞も
絵ではない文字のみで表現されると考えられているが、
表意文字とされる漢字を使う日本語の場合、地の文の漢字や仮名が
マンガの絵に相当する効果があるのではないだろうか。