柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

それは新しい文学なのか 江戸屋猫八百

それは新しい文学なのか 東浩紀ゲーム的リアリズム」について 江戸屋猫八百 述4

 「ソルジェニーツィン試論」から一貫して柄谷行人の陰画(ネガ)でありつづけた東が「近代文学の終わり」(柄谷行人)を意識していないはずがない。

 このことを固有名の視点から捉え返せば、近代文学とは固有名と「この私」(柄谷行人)を一致させるものであったといえる12。

 だから、東がキャラクター小説の隆盛を近代文学の「抑圧されたものの回帰」であるという時、それはあながち間違いではないのだ。

 この小林の「宿命」に柄谷は「単独性」の先駆けを見た16。

 東が柄谷の陰画(ネガ)であるとはそういう意味である。

 7 たとえば、東は村上春樹にキャラクター小説の源流を見ているが、その際、村上春樹は固有名を忌避しているという柄谷の批判(「村上春樹の風景」)を挙げ、むしろ固有名性ではなく匿名性にこそ新しい文学の可能性があると主張し、また中上健次の『異族』において平板で類型的な登場人物にそれが属する民族の典型的な名前――たとえば朝鮮人には「シム」、アイヌ人には「ウタリ」――であることを指摘し、そこにキャラクターなるものがあると述べ、キャラクターと固有名の関連性はないと語っているかに見える。

 12 固有名と「この私」の関係については、中島一夫『収容所文学論』(論創社、二〇〇八年)を参照。

 16 柄谷行人村上春樹の風景」(『定本・柄谷行人集5』、岩波書店、二〇〇四年)

江戸屋猫八百 一九八八年生まれ。大阪大学文学部在籍、近畿大学東京コミュニティ・カレッジ受講生。


僕は江戸屋猫八百さんの影響でツイッターを始めました。
数年前、蒲田の文学フリマでお会い出来て良かったです。

「述4」に倉数茂氏の「衰亡の時代の政治フィクション」も掲載されています。


ツヴェタン・トドロフミハイル・バフチン 対話の原理 付 バフチン・サークルの著作』
(大谷尚文訳、法政大学出版局

 すなわち、『戦争と平和』では、素朴な登場人物であるプラトン・カラターエフは、ピエール・ベズーネフの世界の一要素として立ちあらわれるにすぎないが、いまや逆である。