柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

エトムント・フッサール『イデーンI-I』(渡辺二郎訳、みすず書房)

すなわち、われわれは、ただ、すべての原的方法という最普遍的原理、つまりすべての所与性の根源的正当性という最普遍的原理だけを、自ら明瞭に捉え、そしてその原理を生きいきと念頭に置くということ、一方これに対して、われわれは、様々な認識様式や認識相関関係などの可能性に関する内容上のまた多岐多端にわたった諸問題はこれを不問に付すということ、これである。


柄谷行人原発震災と日本」『大震災のなかで』(岩波新書

われわれは原発を廃棄するということのほかに何も提案する必要はない。原発の廃棄を通してのみ、つぎになすべきこと、なしうることが見えてくる。

原発をすべて廃棄すること、それを市民の闘争によって実現することである。このことに、今日の日本の問題のすべてが集約される。「脱原発」とは、原発を推進してきた資本=国家の諸勢力、その中に組み込まれてきた地方自治体、メディア、大学、労働組合その他の脱構築を意味する。そのために必要なのは、むろん昔の中間勢力の「復興」ではなく、資本=国家に対抗する新たなアソシエーションの形成である。だが、それは原発を廃棄する闘争を通してしか形成されない。