柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

奴隷に自由はあったか

ハンナ・アレント "THE HUMAN CONDITION"『人間の条件』(志水速雄訳、中央公論社

定期的に保証された仕事は、毎日自分が好む通りのことをする自由を制限するから、すでに奴隷的(douleia)と感じられ、多くの家内奴隷の安易な生活よりも苦痛の多い労働のほうが好まれたのである。

自由であるということは、生活の必要〔必然〕あるいは他人の命令に従属しないということに加えて、自分を命令する立場に置かないという、二つのことを意味した。それは支配もしなければ支配されもしないということであった(22)。

(22)この点で最も美しいのは、ヘロドトス(iii, 80-83)におけるさまざまな統治形態にかんする議論である。そこではギリシアの平等(isonomie)の擁護者オタネスが自分は「支配することも支配されることも望まない」と述べている。しかし、アリストテレスが、自由人の生活は専制者の生活よりもよいといい、当然のこととして専制者は自由ではないと述べたとき、それも同じ精神である(『政治学』1325a 24)。クーランジュによれば、rex, pater, anax, basileusなどのような他者にたいする一定の支配を表現しているギリシア語やラテン語はすべて、もともと家族内の関係を示しており、奴隷たちがその主人に与えた名前であった(op. cit., pp. 89ff., 228)。