柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

山城むつみ『ドストエフスキー』(講談社)

山城むつみドストエフスキー』(講談社)は
小林秀雄バフチンの考察を意識しながら
ドストエフスキーを再検討するものだという。
小林よりバフチンへの言及が多く
二葉亭四迷キルケゴール死に至る病』、
デリダ『死を与える』などの参照もある。
山城の文章がドストエフスキーの作品と区別がつかない箇所があり
山城がかつて、柄谷行人「内省と遡行」や
小林秀雄「『罪と罰』について」で指摘した事を思い出した。


山城むつみドストエフスキー』(講談社

 自身に対して発する内的な言葉(「俺じゃない」)をイワンはよく知っているつもりだが、しかしその内的な言葉を自分に発するまさにそのことで彼は何かを抑圧している。何が抑圧されているのか、それはイワンには知り得ない。ただし、アリューシャがイワンのその内的言葉を見透して、それを知己の言葉として彼に投げ返すとき、言葉とともに、抑圧されたものもイワンに回帰してゆく。

 それが回帰して来たとき、イワンは「不気味な」気持ちになる。

 ここのところ、バフチンはノートで「正真正銘の意見の一致は(統整的)理念であり、あらゆる対話性の最後の目的である」とも走り書きして注釈してくれているのだが(「ドストエフスキー一九六一年」)、統整的理念、最後の目的という言葉は、ここではかえってミスリーディングで、むしろ、「同意には常に予期せぬもの、賜物、奇蹟という要素がある」という注釈の方が適切だろう。

 たとえば、フロイトはその最後の著作『モーセという男と一神教』(一九三九)においてモーセエジプト人であると述べたとき、再び隣人愛のこの死地に踏み入って座礁している。彼のその推理は「非学問的」(キルケゴール)だったから、ブーバーを始めとする多くのユダヤ系知識人から非難を受けた。しかし、フロイトユダヤ人の感情を逆撫でするこの仮説を提示するにあたって学問的批判や宗教的反撥を予め織り込んでいなかったはずはない。


2010-10-24 模倣と創作の差異について

山城むつみ『文学のプログラム』(講談社文芸文庫

 一九四八年に発表された「『罪と罰』についてII」は小林(秀雄)の批評作品の中でも「名篇」といわれる。

 手法が愚鈍というのは、原作の第三編の最後部分のディテールがそのまま――原作と比較してみるといい、ほとんど同じである――反復されているからである。それならばいっそ引用してしまえばよさそうなものである。にもかかわらず、小林はこれを引用せず、反復的に再構成している。

柄谷行人の「内省と遡行」について同様の指摘を行なったのも
山城むつみだった。
http://d.hatena.ne.jp/sasaki_makoto/20101024