柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

柄谷行人「『哲学の起源』を読む」 朝日カルチャーセンター・湘南

sasaki_makoto2012-03-04

単行本『哲学の起源』がいつ出るかは分らない。
遊動民は交換様式A=氏族社会以前の段階である。
「哲学の起源」のおさらい(イソノミア、ソクラテス)と
最近考えている中国について。
「帝国論」とは言っていなかった。
宗教と哲学を本来、区別する事は出来ない。
マックス・ウェーバー老子孔子を模範的預言者と考えたが
ソクラテスもそうだと思う。
アレキサンダーはペルシアを模倣し
ローマ帝国アレキサンダー帝国を模倣した。


柄谷行人アーレントはイソノミアをno ruleと訳した。支配が無く自由がある。それに対しデモクラシーのクラシーは支配である。デモクラシーはヒトラー大阪市長のような専主を生む」


keiuchidakei
あくまでメモ:「哲学の起源を読む」柄谷行人/朝日カルチャーセンター湘南・・・遊動民(と、そのバンド)は交換様式A(氏族社会)以前の段階であるが、D(X)がAの高次元の回復であるとする時、Aを否定しつつ(普遍宗教など)ある必然として導入せざるを得ないような形でそれは現れる。
2012年3月3日 - 23:04

sekinechikata
柄谷さんの講座の余韻がまだ続いている。理論は「世界史の構造」「哲学の起源」の先に進んでいるのだが、昨日の柄谷さんは思想家でも哲学者でもなく、ほとんど預言者のようであった。
2012年3月4日 - 15:12

モナド日記 http://triceratops.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-1330.html
俳句的転回 http://chikata.net/?p=2255


マルクス "Zur Kritik der Politischen Okonomie" 『経済学批判』序説(一八五七年)

交換は、個人が分配によって自分のものになった分け前をそれととり換えようとする生産物を、かれに供給する。


http://www.nhk.or.jp/special/onair/120226.html
紀元前4000年、最初の都市が西アジアに出現する。多くの人々が“ともに生きる”場所である都市を生み出した原動力は、分業だ。麦や羊などの原始貨幣を使って給料を支払うという分業システムが専門の職人を生みだし、技術革新を後押しするようになった。その革新によって生産が増え、都市はさらに繁栄していく。しかし、分業システムは必然的に格差を生み出す。長く平等至上主義を守ってきた人間社会は繁栄と引き替えに格差を受け入れたのだ。
ただその一方、格差を解消する模索もはじめていたことがメソポタミア文明の研究から浮かび上がっている。しかし、その模索はギリシャ時代に頓挫する。本格的な貨幣経済のはじまりが人々の欲望を煽り、格差を拡大させていったのだ。その代償は大きかった。欲望の果てに資源を使い尽くしたギリシャ文明は衰退の一途をたどっていくことになったのだ。
ギリシャ文明の運命は、現在、温暖化などの環境問題に直面している私たち自身の「祖型」ともいえる。貨幣システムの誕生と変遷のなか、都市を舞台にした人間の心の変遷をたどり、私たちのめざすべき未来を探る。


トクヴィル

仮に政治革命が普遍的に有効であろうとするならば、宗教革命の一部の性格を取り入れる。


トクヴィル "L'Ancian Regime et la Revolution" 『アンシャン・レジームフランス革命

その起源が封建制から遠く離れて、しかも完全に自律した形で唐突に移されて、中世の村落教区がニュー・イングランドのタウンシップ(郡区)になった。


トクヴィルアメリカの民主主義』(エドゥアルド・ノッラ編、歴史校訂版、第一巻)

アメリカと同等の平等を達成した国民にとっては)すべての人の主権とひとりの人の絶対権力との中間項を見出すのがきわめて困難になる。


クーネン=ウッター『トクヴィル』(文庫クセジュ

トクヴィルはmoresという用語が別途に考えられるべき諸法の意味を除いて、モンテスキューのいうesprit genaral(一般的精神)の意味をもつと考えていたようである。


ホルクハイマー「ショーペンハウアーと社会」〔一九五五年〕
ホルクハイマー、アドルノ『ゾチオロギカ』(藤野寛訳、平凡社

ルソーによれば、祖国とは、個人を貫き通し、一般意志から構成され、一般意志にもとづいて不断に自己を更新しつづける独自の存在である。

そして、民族精神という概念は、モンテスキューの「一般精神」にまで遡って説明されるのが通例となっている。

時間・空間は物自体に帰せられる性質ではないのだから、あらゆる人間や事物の多様性なるものは見せかけ(仮象)にすぎず、他者を犠牲にして自分の安寧をはかろうとする骨折りはエネルギーの誤った投入にすぎないことが立証される。

理性の狡知という観念論のおとぎ話は、過去の残虐さを結末の良さで美化しようとするものだが、はからずも真実を語り出してしる。

ヘーゲルは、世界史の実質的な規定、その最終目標について語っている。(それによれば)世界史とは、究極的には、絶対精神に、哲学的体系に行きつくのだが、それはつまりは全体への純然たる洞察ということである。