柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

マルクス「哲学の貧困」

マルクス "Das Elend der Philosophie" 「哲学の貧困」
マルクス・コレクション2』(今村仁司塚原史訳、筑摩書房

 したがってこうした観念やカテゴリーも、それによって表現されている状態と同じように永遠のものではない。それらははかなく移ろいやすい歴史上の産物である。われわれは、生産力が増大したり、社会環境が破壊されたり、諸観念が形成されたり、等々の絶え間ない運動の中で生きている。運動しないのは――不死ノ死物(mors immortailis)ともいうべき――運動の抽象だけである。


マルクス資本論』第二版、後書(向坂逸郎訳、岩波文庫

 弁証法は彼(ヘーゲル)において頭で立っている。神秘的な殻でつつまれている合理的な中核を見出すためには、これをひっくり返さなければならない。


ジジェク+ドラー『オペラは二度死ぬ』(青土社

ドラー「音楽が愛の糧であるならば」

 現実原則とは、フロイトにとって快楽原則の拡張以外の何ものでもない。

 それに対して、いかなる欲望も断念せず、世のすべての女性を手中に収めることを望む大胆不敵な主人公ドン・ジョヴァンニは、快楽原則の彼岸へと向かう契機を表している。

 彼は、快楽原則を断念することなく徹底的に追求することによって、この原則をその極限にまでもってゆく。

 第一の経路はパパゲーノのもの。パパゲーノは、快楽原則――彼はそれに抵抗できない――に導かれているために試練に耐えることができない。


ジジェク「私はその夢を、見たくて見たのではない」

 ここにあるのは、象徴的交換のもっとも純粋なかたち、拒否されることを目的になされる身振りである。

 この身振りをしてもしなくても、結局は同じことであることにもかかわらず、この操作のもたらす結果は全体的にみて零ではなく、当事者にとっての明確な利点、つまり連帯関係の成立をともなっている――それがここでの要点、象徴的交換のもつ不思議な力である。

 等価交換とは、等価交換の基礎である過剰を隠蔽する、ひとつのまやかしとみうべき幻想である。

 この身振りは、デリダのいう贈与、われわれが散種へと開かれることに対する原初的な「イエス!」として概念化することができる。あるいは、原初的な喪失、ラカンのいう象徴的去勢として概念化することができる(ワーグナーの神話空間において、法的交換の領域を確立するこの暴力的な身振りは、〈世界のトネリコ〉を引き裂くヴォータンによって表象される。ヴォータンはこの木から槍をつくり、法を内蔵したルーン文字をその槍に彫る。この行為のあと、黄金を盗むアルべリヒや剣〔ノートゥング〕をひきぬくジークムントなど、似たような一連の身振りがつづく)。このようにワーグナーは、交換の均衡は原初的均衡の乱れ、社会的交換の空間を開くトラウマ的な喪失に基礎づけられている、ということをよく分かっている。しかし、この重要なポイントにおいて、交換への批判は両面的になる。それは、原初的な「イエス!」――すなわち、均衡のとれた交換の領域、閉じられた経済の領域に拘束されない〈他者性〉に対する開かれた状態という抑えがたい過剰性――を擁護することもあれば、他面において、この過剰な身振り以前の原初的な均衡を取り戻そうとすることもある。ワーグナーによる交換(の社会)の拒絶は、彼の反ユダヤ主義の根底にあるものだが、それは堕罪以前の均衡を取り戻す試みにおいて頂点に達する。

 それは、婚姻にもとづく女の交換に対して、近親相姦的なつながりのほうを肯定する。すなわち、交換にもとづく悪いカップル、ジークリンデとフンディングに対して、良い近親相姦的なカップルであるジークリンデとジークムントを肯定し、交換にもとづく二組の他のカップル(ブリュンヒルデとグンター、グートルーネとジークフリート)に対してブリュンヒルデジークフリートを肯定する。

 ここには、モダニティ、つまり交換の支配という第三項が、有機的紐帯の崩壊を示す、近代産業と近代的個人を示す項が存在している。交換と契約の主題が、『指輪』において中心的といえる唯一の主題なのである。

 快楽原則の彼岸にある次元のための場所、その語の根源的な意味における愛のための場所が存在していない。

 快楽原則の支配を維持する唯一の方法は、(なんらかの過剰な)快楽を犠牲にすることである、またそれとは逆に、快楽原則の支配を崩す唯一の方法は、恐ろしく耐えがたい過剰性にいきつくまで快楽を追求することである。

 この音楽は、ユダヤのショーファ(羊の角笛)よりもはるかに、フロイト的な原初的罪を、死をむかえた原父Urvaterの痛ましい叫びを表現していないだろうか。そのセクトのリーダーであるデイヴィッド・コレシュが、フロイト的な原父の役割をもって(グループの女性と性交する権利は彼だけにあり、他の男性のメンバーには性交は許されていない)セクトのメンバーを抑えつけていた以上、この猥褻な形象〔人物〕の苦悶を表現する音楽をFBIが使ったことは、ある意味で適切だったのではないか。

 ラカン的見地からすれば、永遠に女性的なものへのこの言及を「対になるシニフィアンの原初的な抑圧」の否認、すなわち、対になるシニフィアンが抑圧されることのない前近代的な神話的宇宙へのまやかしの回帰とみなすことは容易である。

 近代的な宇宙は、〈一者〉の徴のもとで成立しており、抑圧された〈他者〉(補足的な、対になるシニフィアン)が回帰できるのはS2の連鎖のなかだけである。一対のS1‐S2の代わりにわれわれが手にするのは、二つのレヴェルの――〈一者〉と、〈一者〉の押しつけによって抑圧されたものが回帰する場である〈他者〉の連鎖との――根源的な非対称である。

 この『トリスタン』『マイスタージンガー』『パルジファル』の三幅対は、男同士のあいだでやりとりされる交換物としての女という考え方を前提にしている。

 最初の真のワーグナー的オペラである『さまよえるオランダ人からしてすでに、ゼンタを彼女の父親とオランダ人とのあいだで交換する話である。これは、あきらかに誤った交換である。

 そして、われわれがこれまで焦点を当ててきた三つのオペラは、正常な交換がゆがめられる際の三つの様態を提示している。

 ●『トリスタン』において、交換は失敗し、仲介者が花嫁を奪い取る。この失敗をまねいた原因は、交換自体が誤ったものであったという事実にある。

 いいかえれば、トリスタンは、正常な交換においてイゾルデのパートナーであるべきだったのだ。

 ●『マイスタージンガー』において、交換は正常であり、歌合戦の勝者がエーファを手に入れる。

 ●最後に『パルジファル』においては、クンドリが交換の対象であり、それはクリングゾルによって操作される。

 クンドリは最初は勝利するが、交換がおこなわれなくなると敗北する。

 したがって、永遠に女性的なものという空想においても、象徴的法に支配され、男同士の交換の対象に還元された女においても、女の欲望という現実(リアル)んび際会することはできない。

 そうではなく、その傷は、性的関係のギャップのなかに回帰する原初的に抑圧されたものである。

 『神々の黄昏』においては、関係の正常化をもたらす可能性のあった二重の交換――グートルーネを得るジークフリートブリュンヒルデを得るグンター――もまた失敗している。

 主体とその分身は、けっして交換可能ではない。

 われわれは、自分は疎外され、客体化され、貨幣と交換可能なものに還元され、あらゆる実質的な内容を奪われていると感じているが、われわれはそうなってはじめて、自己を主体として経験できるのである。必要な修正を加えていえば、女は、男同士のあいだで交換される対象になるかぎりにおいて、根源的な意味での主体性を表象するのである。


ジジェクの交換、近親相姦への言及で先日の柄谷行人を思い出した。